第十八章  イエスの熱心

「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」 ・・・ルカ 12:49

 奇妙なことに、「熱心」という語は英語訳新約聖書に出てこないし、ギリシャ語聖書にも見いだ
されない。けれども新約聖書はすべての書物の中でもっとも熱烈であり、イエスはすべての人
の中で最も熱烈である。「熱心」という語は、ある理由によって避けられた。1世紀においては、
それは芳しくない概念であった。異教徒たちの間では、熱心は恍惚とか霊憑きのことであっ
た。熱心者とは、神に霊感されたとか憑かれた人のことであった。しばしば熱心者は熱狂的
で、場合によっては狂人であった。宣教師たちや使徒たちはその語を嫌った。だから彼らは自
分たちの書き物にその語を使わなかった。今日の説教においては、熱心は高貴な語である。
それは心の炎であり、魂の熱中であり、霊の高揚である。それは情熱、熱、火、である。その
語は存在しないけれども、それ自体は存在する。イエスは熱烈な心に燃えていた。彼の語るこ
とばは正に、大火を焚きつけるものである。
 少年時代に両親と共にエルサレムを訪ねたとき、神殿で学者たちが宗教上の大問題を議論
しているのを聞くために一日とどまり、彼はわれを忘れた。彼はそのときが週のどの日か忘
れ、その日の何時であるか忘れた。彼の父も母も兄弟たちも姉妹たちもそしてすべての友たち
も、完全に彼の心から消え去った。彼は博士たちの議論に頭から突っ込んで、その時の話題
に完全に身を投じ、突然彼の母の顔が戸口に現れ、ガリラヤに向かうキャラバンが出発すると
きそこに行かずにとどまったことを思い出させられるまで、議論の潮流に夢中になっていた。こ
の神殿での経験に、私たちは彼の生まれつきの繊細さと熱く熱せられ得る感受性を見るので
ある。次に30歳の若い人として彼が私たちの前に現れた時には、私たちは力ある説教者ヨハ
ネに洗礼を受けるためにヨルダン川にきた彼を見る。マルコは私たちにこう語っている。洗礼
が終わるとただちに彼は聖霊によって荒野に「追いやられた」と。「追いやられた」という語はそ
の中に重大な啓示を含んでいる。イエスは洗礼によって得た経験のあと、人々の住んでいると
ころにとどまっていることができず、ただちに人通りのない荒野の土地に急いで去らなければ
ならない。そこでは自分の身に起きた特異なできごとを深く考えることができるし、次に自分が
取らなればならない方策をじっくり考えることができるという非常に深い感じをもった。このとき
から私たちは、私たちの前に、ひとりの追いやられる人物を見るのである。少年の時でさえも、
彼は自分が強く感じていることを表すことば、「私が父の仕事場にいるに違いないと思わなかっ
たのですか?」を使った。彼は「ねばならない」という語を使うことを決して止めたりしなかった。
彼らはイエスにカペナウムに留まってもらいたかったが、彼はそうすることはできなかった。「わ
たしは神の国の福音を他の町々にも宣べ伝えなければならない。」彼らは彼に、そこは危険で
あったので、エルサレムに行かないで貰いたいと思ったが、彼は言った「わたしはエルサレム
に行かなければならない。わたしには受けるべき洗礼がある。それが完成するまでどうしてと
どまることができようか?」彼は自分のいのちが短いことを感じていたので彼は言い続けた、
「わたしはわたしを遣わしたかたの業を昼のうちにおこなわなければならない。夜がくるとだれ
も働くことができないから。」
 彼の生涯がどんなに強烈であったか彼の祈りの習慣がそれを私たちに語っているのに気づ
く。彼は絶えず祈っていた。彼はより多くの時を祈りに過ごすために朝早く起き、神と語る時間
を増やすために夜遅くまで起きていた。しばしば全く床につかず、神に魂を注ぎ出すために夜
通し星の下で丘の上に留まった。彼は祈りに熱心であった。それ故彼はその業にも熱烈であ
った。人々は彼の労の大きさに驚嘆した。しばしば食事するひまもなかった。休養する時を持
とうと出かけても、彼は追ってくる群衆のためにそれをあきらめなければならなかった。彼のこ
とばはその中に燃えるエネルギーがあった。再々私たちは、彼の偉大な心臓の鼓動を感じる
表現を捉える。「わたしはイスラエルの中においても、このような大きな信仰を見たことがな
い。」「女よ。あなたの信仰は偉大である。」「父よ。わたしはあなたに感謝します。」「あー。エル
サレム、エルサレム。いかにしばしば!」これらすべてはひとりの熱心な人の喉から出てきて、
人に感情に拍車を掛けるのである。それらが語られた時から1900年を隔ててもなお、私たち
はそれを聞くとき心を躍らせる。世々の雨もその火を消すことはなかった。
 しかしイエスの語ることばのみでなく、彼に触れた人々が語ることも、彼の熱した心の中心を
私たちに見せてくれるのである。マルコは率直に私たちに語る。イエスの生きておられた時、
彼の仕事はあまりにも多かったので彼の友たちは言った、「彼はわれを忘れた。」と。そのフレ
ーズは実によく表現している。一人の人物がしばしの「休憩」を取った時、われを忘れた。彼は
彼の思考や正気から離れた遠くに行ったのではなかった。しかし一人の人がほんのちょっぴり
バランスをくずしたとき、彼はわれを忘れる。彼は正気と狂気の境界線にいる。そのようなよい
業をなすことに対する燃える熱心は、パレスチナでは決して見られなかった。人々が「彼はわ
れを忘れた!」と言ったのも不思議ではない。しかもこれは彼の友たちの判断であった。彼の
敵たちは「彼は悪霊憑きだ。彼は狂っている。」と大胆に言うことをためらわなかった。イエスは
この印象を一度だけでなく、しばしば示した。正義に対するそのような熱意、人を助けることに
対するそのような熱心は、冷血な律法学者たちにとって狂人の猛烈さに見えた。パウロが同じ
心を持って燃えていたとき、フェストは叫んで言った。「パウロ。おまえは狂っている!」そう思う
ことのできない人にとって熱心ほど狂気に見えるものはない。
同様に群衆も、この人が内に火を持っていることを証明した。彼はそのゆくところどこにおいて
も人々を沸き立たせた。彼らは、陸を離れて船に乗り込まざるをえないほど彼の周りに群がっ
た。彼らは平地から丘の中腹まで彼を押し上げた。彼らは彼がいる家に群がり、彼が通りをあ
るくと彼の周りに押し迫った。繰り返し興奮は加熱し、イエスは自分のことをするために逃れな
ければならなかった。彼の通るところに近づいて彼らは喜びに心を乱して荒野に行き、叫び、
歌い、彼らは着物を土の道路に投げてそれを王の凱旋の行進のためにあつらえたカーペット
のようにしてイエスの乗った動物を通らせた。自分の魂が燃えている人でなければ、誰も群衆
を燃えさせることはできない。ある人々は歓声を上げて叫び崇拝するが、他の人々は歯ぎしり
して呪い、ある人々は愛に沸き立つが、他の人々は嫌悪に沸きかえる。それは心をかまどの
ように燃えさせ、その魂のゆくところどこにおいても熱を放つ人の前に私たちがいる証拠であ
る。
 さらによい証拠は、イエスが彼の親しい友として惹きつけた人の品性の中に見いだされる。
使徒たちはみな火の人であった。十二使徒たちを気力のない青白い人々として描いた絵を信
じてはならない。彼らは血気盛んであり、男性的な、力強い人々であって、火と情熱に満ち、彼
らはイエスの中に自らを満足させるものを見たのでイエスに惹かれたのであった。ペテロは沸
き立つ心情をもっていて、彼のことばは熔けた溶岩のように流れ出た。ヨハネとヤコブは雷の
子と呼ばれた。イエスの愛された弟子は、主を侮辱した町全体を焼いてしまいたいと思ったほ
ど非常に情熱的であった。弟子の一人は、パレスチナで最も急進的な政治組織である熱心党
の党員であった。この政治団体の人々はほとんど眠ることもできないほど強烈にローマを嫌悪
し、熱心党員の間では冷静で弱々しい人物に惹かれるものなど一人もいなかった。それはつ
まり、シモンが使徒たちに加わったのは、熱心党員の愛する炎をイエスが内に持っていたこと
を意味する。同様にユダも激しやすい資質を持っていた。彼の良心の呵責は彼を火に投げ入
れた。歴史上、彼の「私は罪を犯した!私は罪を犯した!」という叫び声以上に慄然とさせられ
るものはない。もし使徒たちの仲間に不活発な気質の人物がいたとしたら、それはトマスであ
る。しかし彼でさえイエスの危機に際してはイエスに献身して仲間たちに言った。「さあ、私たち
は行って、彼と共に死のう。」それが彼ら全員の思いであった。彼らはそのように熱烈な献身、
そのように情熱的な自己放棄をもってイエスを愛した。それは、彼らには毎瞬彼のために自分
のいのちを捨てる覚悟があったのである。自らの魂が熱くないのに人々の熱烈な献身を獲得
し、それを保つことのできるものはいない。イエスは自分が熱心であったからこそ最初から最
後まで熱血漢たちによって取り囲まれていた。
 もしあなたがたがこの熱心の原因を探求するなら、あなたがたはそれには3つの根源がある
ことを発見するであろう。第一に、イエスは感じやすい性質をもっていた。彼は精細に造られ、
彼の神経には微妙な緊張があった。人間の出来には、人によって大きな差がある。ある人々
は粗野で、鈍感で、鈍い。彼らは、感じはするがそれは強くない。彼ら植物のような情緒を持っ
ている。他の人々の中には、アイオリス人の竪琴のような繊細な調整がなされている人々もい
る。彼らの上に吹くすべてのそよ風すらも、彼らを振るわせ、彼らに音楽を求めるのである。イ
エスはそのような人であった。ひとつの魂のまわりに肉体を形作って組織された粘土よりも繊
細なものない。そしてこの肉体は罪によっても決して荒れたり無感覚になったりしなかった。変
貌の山でイエスの魂は、彼の肉体を通して非常に輝き、弟子たちを畏れさせ圧倒した。ゲッセ
マネの園での彼の苦悩は非常に大きく、彼の額の汗は月の光に照らされて大きな血のしずく
のように見えた。ひとたび彼の魂が彼の顔面に表されるや、人々は後ずさりして地に倒れた。
 この燃えることのできる性質に伴って、そこに神の姿と、国民に火を投じることのできる人の
姿が存在する。イエスは宇宙の創造者である父と、物事の中心には父の心を打つものが存在
すること、すべてのものは父の配慮の下にあること、すべてのものの上に父の愛が注がれて
いることを見た。他の人々はこのことを、まるで暗いガラスを通して見るようにおぼろげに見て
いた。しかしイエスはかつて人々が見たことが決してなく、これからの人々も決して見ることの
ないようにはっきり見ていた。彼にとっては宇宙とそのすべてはひとつの明確に啓示された事
実であって、この驚くべき真理の栄光を見た。神はすべてのものの父であり、したがってすべて
の人々は神の子どもたちである。神は彼らすべてを創造し、彼らすべてを愛し、彼らすべてが
救われることを望んだ。彼らが何者であり、どこにいても問題ではない。彼らは神の子どもたち
であり、神の愛と配慮を超えてどこかに行くことはできないのである。
どこにいる人々も兄弟であり、ある兄弟にとっては他の兄弟を助けること、これが彼の人生に
おけるこよなき喜びである。他の人々はこれをおぼろげに見るが、イエスにとっては、これらは
真昼の太陽のように明確であった。そのような神観、そのような人間観をもっているのだから、
彼の魂が星のように燃えて何の不思議があるだろうか?そのような神観人間観によって熱く熱
せられた彼のそのような天性から、確固たる情熱に溢れた目的が生じた。イエスの澄んだ目
には非常に大きな戦いが地上に猛威を振るっているのであった。恐るべき衝突が正義と悪、
光と闇、善と邪悪、神と悪霊との間にあった。そのような危機にあって、彼は全身全霊を持って
闘争に身を投じ、父の栄光と兄弟たちの幸せのために不屈の戦いをする以外になかった。感
受性に富み燃えることのできる天性、明確で栄光に富んだビジョン、そして情熱的で誇り高い
目的・・・この三つを一緒にしてみなさい。そうすればあなたがたは、熱心として知られる神の火
を創り出す要素を持つことができる。
 熱心とはなんと素晴らしいものであることか!モーセは柴が燃えているのを見るために脇道
に入った。誰でも燃えている人を見るために脇道に行く。幾世紀を概観して、あなたがたはど
の時にも燃えている人を見るためには踏みならされた道からそれなければならない。熱心にも
いろいろな種類があるが、どの種類にも魅力がある。肉体的な熱心と呼べるようなものがあ
る。それは精神と血の熱心である。ギリシャの偉大な体育競技に火をともしたのもこの熱心で
ある。そしてそれは現代においても私たちのフットボール競技を燃え上がらせる。少数の強い
男たちの激しい試合を見守って興奮させられる四万人の観衆のひとりとなり血湧き肉躍らせる
のである。それは熱心の高い姿ではないが、栄光があり、人々はそのスリルを味わうために何
マイルも出かける。これよりももっと高貴なものに知的熱心がある。人々は真理の探求の中に
それを感じるのである。これは探検家、発見家、発明家や学問の研究者の熱心である。・・・彼
らは鍵となる未知のものごとから新しい王国をつかみ取るために自分の生涯を献げる。人々
は知識の研究に彼らの人生を投じることを高価すぎるとは思わない。探検家が荒野や砂漠で
死んでいったことや、医者が人のいのちをのばしその痛みを和らげる秘密を探求するために
研究室にその人生をかけることを読むとき、私たちは畏敬の念に打たれて沈黙する。心は何
か神聖なものがそこに存在することを知っている。美の探求における火のような熱心つまり美
への熱心は更にこれを超えている。その目に美を求めて飢え渇いている男女がいる。その美
はその目を持っていない私たちには理解しがたいものであるが。芸術家の目をもっている人は
どこにおいても美しいものを探し求めている。彼のまぶたが閉じるときもなお、彼の精神はその
形、色、影、いきいきとした完全な光景を見ている。芸術の歴史はなんという歴史であること
か。英雄たち殉教者たちの道のりは、なんと嶮しくいばらの道を旅することであったことか。 
多くの人が日々彼の目が衰え始めるまで描き、そうして影の深みのまっただ中で決して挫け
ず、最後の闇が訪れるまで決して屈服しないで描いた。他の人々はハーモニーを追求すること
に飢えた耳を持っている。その生涯を通して彼らはより十分な愛らしい音色に渇いている。彼
には神殿がないが代わりに広大な栄光ある音楽の殿堂があり、メロディと荘厳な秩序ある調
べが潮流となってその魂の中を常に流れるのである。音楽家の伝記は、なんと素晴らしい伝
記であることか。彼らの多くにとって、それは労苦と、窮乏、犠牲、失望、貧困の生活であっ
た。しかし天の賛歌のより高い緊張を魂が追求することによって、これらの貴重なものさえ滓と
見なした。そのようなすべての殉教者たちの前に魂は靴を脱ぐ。それはその地が聖であること
を知っているからである。しかしすべての熱心を超える更に高いものは、神への愛に魂が燃え
る炎である。神を知ること、神に仕えること、神を崇めること、これこそが魂に可能な最高の望
みであり、この望みを抱く魂は消すことのできない火によって燃えるのである。これがイエスの
熱心であった。彼の内に、熱心は最高点、そのクライマックスに達した。彼は永遠者の臨在の
中に生き、動き、存在した。はじめから終わりまで彼は至高の義を見、聖潔の美を愛し、神の
栄光のために生きた。
 従って、イエスの宗教が「火」という語のようであっても訝ることはない。バプテスマのヨハネは
こう宣言した。自分はあなたがたにただ水で洗礼を施すことができるのみであるが、これから
おいでになるお方は火をもってバプテスマをお授けになると。人々はヨハネのもとから濡れて
帰ったが、イエスのもとからは火をつけられて帰った。ルカは私たちに、ペンテコステの日に各
自の額の上に、新しい宗教の中心的な印に相応しい炎とみえるものがあったことを告げてい
る。パトモス島でイエスのことを思いめぐらしていたヨハネは、火の炎のような目を持ち、加熱さ
れた真鍮のような脚を持ったイエスを見た。彼はイエスがラオデキヤ人たちに語るのを聞いた
が、その内容は以下の通りである。「わたしはおまえたちが冷たいか熱いものであることを望
む。おまえたちは熱くも冷たくもなく、生ぬるいからわたしはおまえたちをわたしの口から吐き
出そう。」人は冷たい水を心地よく飲むことができる。適当な温度に熱した水も同様に飲める。
しかし生ぬるい水は嫌悪する。愛された弟子はイエスがこう言われたことを記すことをためら
わなかった。「生ぬるいキリスト者たちは、わたしにとって吐き気がする!」
 だが悲しいかな! いかに多くの生ぬるいキリスト者たちがいることか。彼らは無頓着で、ど
っちつかずで、熱くも冷たくもない。彼らは反対もしなければ、賞賛もしない。しかし世に迎合す
ることによっては、世に火をともすことは不可能である。賛意は知識の分野の同意であって、
熱心は魂のほほえみである。キリスト者たちがそんなに熱心に欠けるのはどうしたわけか?そ
の答えは、人々の性質にこの世の霧雨が深くしみ込み、それに冷やされて湿り、天性は堕落し
神の父性と人の兄弟愛に対するビジョンが消え失せたためである。それゆえ成長することを目
指した幻に欠け、魂が火を捉えることができないのである。では、私たちはどうすべきであろう
か?私たちは熱心な神であるイエスのもとに帰ろう。神はそのひとり子を与えるほどに熱烈か
つ熱心であられた。もし私たちがそのような素晴らしい福音の前に燃えていなかったら、私たち
は石の心を持っているということである。しかしイエスは私たちの成り立ちをご存じであり、石の
心に変えて肉の心を与えることを約束しておられるのである。



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