第十七章  イエスの率直

「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。」・・・ヨハネ 14:2

 「率直」ということばには現代的な感じがある。昔は、それは「白い」という意味の古典ラテン
語の「candidus」に由来して、白さ、輝かしさを意味した。その語から私たちは、候補者が白いト
ーガ(古代ローマのゆったりした上着)を着て候補者であることを明らかにしたために
「candidate 候補者」という語を使うようになった。しかし現今においては、率直は公開性、公正
さ、歯に衣を着せないこと、誠実を意味する。これは貴重な徳であって、すべての徳の中で最
も魅力のあるもののひとつである。大多数の人はそれを持っていない。むっつりと無口で、うち
解けず、秘密主義である。心の戸をいつも閉ざしている。彼が何かものを言うとき彼が意味す
るもの全部を理解し得ない。というのは彼が隠しているものの広がりを知り得ないからである。
彼が何かを行うときあなた方は彼が次に何をするか分からない。なぜなら彼の行為は彼の心
にあるものの実態を十分に顕しているか分からないからである。彼は自分を誰にも十分には
明け渡さない。彼は唇にバリヤをもっており、心にかんぬきを掛けている。そのような人は恐ら
く尊敬され賞賛されるかもしれないが愛されない。イエスは愛された。人々は彼のために死ん
でもよいと思うほど強烈に彼を愛した。その理由の一つは彼の心が開かれていたからであっ
た。
 あるものはただイエスを驚き賞賛した人々によって人間の気質についてのヒントを得た。他
の人々の内に見ることを人々が真に好む特徴は、おそらく自分自身の品性の姿に似たもので
ある。ヨハネは彼の福音書の中で、ある日ナタナエルという名の人物をイエスがほめたことを
語っている。ナタナエルはガリラヤのナザレからあまり遠くないところに位置する小さな村、カナ
の住人であった。ピリポはイエスに関して少し情報を得るとすぐに、彼の友人のナタナエルを一
緒にイエスのところに連れてこようとした。ナタナエルを見つけると熱心に言った、「私たちはあ
の人を見つけた!」と。すると冷たい返答が返ってきた。「ナザレから何か良いものがでるとい
うのかい?」二つの村カナとナザレは近くにあって、となり村で起こることをしばしば見ていたの
であった。大きな町どうしは互いに苦い羨望をもって知り合うが、この競争関係は張り合う小さ
な町の間ではしばしばもっと強烈である。ナタナエルはみすぼらしい小さなナザレに心の奥底
からの軽蔑を持っていた。そしてこの皮肉な「ナザレから何か良いものがでるというのかい?」
という質問が彼の心のすべてを顕した。彼はあけすけである以外の何ものでもなかった。彼の
友人は全く動じることなく穏やかに言った。「来て見なさい。」それでこの皮肉屋は、すぐさまつ
いて行った。彼は予想を持っていて、彼らと同じ考えにとりつかれることはなかった。彼は偏見
を持っていたが、彼らに背を向けることはなかった。彼の友の提案は彼がなすべき唯一の合
理的な答えだったので、彼は直ちにそうした。彼は自分自身を探ることを進んでしていた。彼は
開かれた精神と率直な心を持っていた。イエスは、つい先ほどいちじくの木の下で祈る彼に会
ったばかりであって、彼の率直さと高貴な面持ちに感動された。イエスは彼がやってくるのを見
るとただちに音楽のトーンをもって彼をほめていった、「見よ、真のイスラエル人だ。彼のうちに
は偽りがない。」これはイエスの心を一瞬にして勝ち取った人の性格であった。彼の内には手
細工も巧妙さも、ダブルスタンダードとか表現を歪めることはなかった。それ故イエスの心はた
だちに彼に惹きつけられ、彼の開かれた魂が開かれた天に進むことを保証された。遠慮ない
ものの言い方と自分に率直であることに、イエスは二心のない魂として「en rapport(共鳴)」し
た。そしてここに私たちはイエスが常にこどもの性質をほめる理由を見いだすのである。こども
の心なしに誰も天に入ることはできない。それはなぜか?こどもの心は常に開かれた心である
からである。あなた方はどこで小さい子どもの中にある、そのような公平さ、そのように美しい
率直さ、そのように驚かせしばしば人を困惑させる遠慮なさを見いだすことができるであろう
か?彼は自分がなにを考えているか、考えること全部を余すことなくすぐ語るであろう。彼は感
じるままを知らせ、彼の感じること全部を、その繊細な自分を顕す十分さによってあなたの心を
溶かし圧倒するであろう。弟子たちの真ん中にひとりの子どもを立たせ「これが、あなたがたが
このようにならなければならないものである。」となぜイエスは言ったのか、その理由の一つは
小さい子どもは率直さの化身、具現化であるからである。
 人は自分の得意とする点や美点に真実であると同様に、嫌う点についても明らかにする。イ
エスが最も嫌われたのは誰か?パリサイ人たちであった。彼らは偽善者であった。偽善者は
役者であり、仮面を被っている、その仮面はその内にある人物ではない他の人格を表してい
る。「役者のようであってはならない」これは彼が常に主張したことであって、彼は偽善者をそし
り非難する機会を失することはなかった。ある機会にイエスはエルサレムで彼らに対面し、彼
らに面と向かって「まむし」と呼んだ。それは激しいことばであって、そう言われた人の魂の内
奥を表現したものであった。彼らは蛇のように毒を出し致命的であった。神の名を曇らせること
は恐ろしいことであって、宗教をひどく不快なものとさせる。そして世の心を毒するのである。こ
れらの偽善者たちがなすことはすべて、イエスの罪のない心にとってこれ以上に不快で非難に
値する人々はいないのであった。彼自身は純粋で開いた心を持っていた。だからこれらの二
心の役者たちの悪辣さを燃える義憤をもって暴いたのであった。彼は真実が語られなければ
ならない時には、決して真実を後退させなかった。彼の愛の心は彼にその時がやってきたこと
を告げた。カナの結婚式で、彼は新郎の窮状を助けたいために彼に対する哀願の目で彼の優
しい言葉を待っていた母に、彼はわれに返って言った。
「婦人よ。私があなたに何をしなければならないというのですか?」マリヤの心を剣が刺し貫くと
いうことはずっと前に予言されていたことであったが、ここに確かに剣が刺し貫くということのひ
とつがある。母の願いはもはや息子の行為をコントロールすることが許されない時がやってき
た。彼女の差し迫った求めはもはやイエスの行為の道筋を決定することはできないのである。
ナザレの昔は永遠に過ぎ去り、イエスの生涯に新しい時代がやってきた。そしてこのより大き
い分野では、母はただひとりの婦人であり、彼女の考え、感じ、望むことは彼女が息子と呼ん
でいた人の意志にとってはほんの付随する程度のものであるべきであった。こう語るときイエ
スが感じた苦痛がどのようなものであったか、私たちはただ想像するのみである。しかし彼は
開いた心の持ち主であったので、心の痛みを表すことばが語られなければならなかった。
 福音書はこの驚くべきそして大胆な率直さの描写に満ちている。ある日サドカイ人・・パレス
チナの貴族階級で影響力のある階級の代表的な人々・・たちとの会話で彼は彼らにそっけなく
話した。というのは、彼らはあまりにも無知であったためいつも誤りに陥っていたからであっ
た。彼らは一向に物事を知らず、聖書にも神の力にも無知であった。それでしばしば彼らの知
識の限界に注意を払わさせる必要があった。それは人々にとって必要なことばであった。しか
し、そのような警告を実際に言うことは簡単ではない。イエスが人々の弱点のあるものを癒そう
と試みたのは、彼の率直さの故であった。彼の率直な愛は、十二弟子たちおよび彼の弟子た
ちの間に名を連ねることを望んだすべての人々に対する彼のはっきりした警告の中に表され
ている。彼は何ものをも残しておかなかった。恐るべき真実はすべて話されなければならなか
った。弟子となることに含まれているリスクと危険をあらかじめ知ることなく彼に従った人はいな
かった。マタイの10章を読んでご覧なさい。そこに彼の率直さの輝いた描写がある。彼は十二
弟子が彼の業をすることを望んだが、彼らがそれに取りかかる前に彼らは当然予想される種
類の経験を知らなければならなかった。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼
の中に羊を送り出すようなものです。」この絵は羊と狼の両方を知っている人々に言ったぴっ
たりした表現である。彼はこのようにはじめに刈り入れする人の心をがっかりさせるに十分な
暗い絵を描いた。そしてそのような恐ろしい危険に直面する彼らに与えたのは、天の父に最後
に彼らを告白する約束で勇気づけることのみであった。「私はその意味が分からなかった」と彼
に言ったり、あるいは「なんで私に話してくれなかったのか?」と苦情を言ったりする弟子はい
ないであろう。人々が彼のもとに押し寄せて「主よ、あなたについて行きます」というとき、彼は
彼らに暗いことばをちらっと投げかけ、誰の忠誠であっても受け止めることを喜ばないで、彼が
もっとも支えを必要としていた時さえ、志願する人々に彼の位置する場所に十分値する内容を
はじめに明らかにした。人々の頭脳は至上の統治と栄光の夢に満たされていて、数多くの心
が「あなたがたはその杯を飲むことができますか?」という質問によって冷やされた。彼の率直
さは彼についてくる人々の数を減少させた。しかし彼にとって知る権利を持っている人々に対し
て何ものをも隠しておかないことは当然であった。
 しかし、彼の告白の中に彼の率直さは頂点に達するのである。彼の告白の間に、私たちの
注意を惹く三つのことがらがある。彼はためらうことなく彼の権威に限界があることを認めた。
ある日、一人の人が「私の兄弟に財産を私に分けるようにはなしてください」と叫んで割り込ん
だが、彼の答えは、「人よ。誰が私を裁判官や調停人にしたのか?」であった。イエスにはしな
いと決められた分野があった。これは救い主として驚くべき告白であった。救い主はいのちの
王国のすべてにわたる権威であることが預言者たちの夢であって、いかなる形でも不義は彼
の足下に踏みつけられなければならなかった。国民は世が呪う残酷な不平等を終わらせ、平
等な手で正義をはかる王を長いこと思い描き続けてきた。今、救い主はその分野に関わること
はできないといって、正義を求めた人にわざと背を向けている。ただ強い人のみが、彼らが彼
に期待したことをその人のためになすことは不可能であることに率直に同意することによって、
彼の友たちを失望させる勇気を持っている。イエスは自らの権威に限界があることを告白した
のみでなく、彼の力もそうであることを告白した。彼の二人の弟子が新しい王国における主要
なポストを求めた時、彼は率直に、彼自身は総理大臣を選ぶ力を持っていない、それらすべて
のことは神の深みに隠されている事柄であるからだと語った。
  もっと驚くべきことに彼は自分の無知についても告白している。知らないことがある救世主
は、敬虔で教育を受けたヘブル人にとって同意できない概念であった。救い主はすべてのこと
ができるばかりでなく、すべてのことを知っているべきであった。その伝承はユダヤ人同様、サ
マリヤの田舎の人々の心にも堅く宿っていた。私たちはサマリヤの女のことばでそれが分かる
のである。「救い主が来るとき、彼は全てのことを私たちに語ってくれるでしょう。」しかしイエス
は自分には知らないことがあることを率直に認めた。例えばある日、世の終末に関する図式
的なことばの中で彼はこういっている。彼は、自分はそれが起こる時を知らないと、非常に決
定的に明らかに語った。彼の聴衆の驚くことに、彼は言った。「その日その時がいつか誰も知
らない。天にいる天使もしらない。子もまた知らない。ただ父だけが知っている。」と。自分の仕
事をしている分野において、公に知らないことがあることを見つけられること以上に、教師の権
威を非常に弱くするものはない。彼の分野で無知な点があることは非常に危険であって、それ
を告白する教師はいないのである。それは一般の信用を閉ざし、彼のことばの権威を傷つけ、
彼の成す業をだめにする。自分には知らないことがあることを告白する教師は真に率直であ
る。イエスは自分がそうであることを告白した。彼はそのリスクを知っていたがそうしたのであっ
た。彼は自分のことばが誤解され、それらが数千ものつまずきの石となるかもしれないことを
知っていた。しかし、彼はそれらを語った。ふたたび、そしてさらにもう一度、彼の友と弟子たち
は、彼らの師よりも率直でなかったので、イエスの大胆な表明に縮み上がり、イエスのことばを
手加減し、それらを彼らの面前で語られたことよりも意味を薄めようとした。イエスを全知者で
はないと考えることを喜ばない人々、そしてイエスの知識に不完全な部分があるとひとたび語
ると、彼らの十全な信仰をためらわせ、王の王、主の主としてイエスの前にひれ伏すことを拒
絶するかもしれないとして恐れる人々によって、イエスの宣言に対して数多くの巧妙な解釈が
なされてきた。しかしそのような聖書の明快なことばを曲げようと試みることは公正ではない。
ペテロは率直であったこと、マルコは全くイエスが語ったとおりを私たちに語ったこと、そしてマ
ルコはペテロが報告した通りに書く真実さを持っていたこと、マタイはイエスが長く待ち望んでき
た救い主でありイスラエルの王であることを実証するために書いた本の中に、世の終わりに関
する日と時をイエスは知らないという告白を、ためらわずに書き下ろしたことに私たちは感謝し
よう。新約聖書はその英雄と同様に、栄光に満ち、率直である。それはイエスに「これは救い
主、神の子である」といった言葉を指摘している。そしてそれは私たちに人々が彼を刺し通した
ことも語る。
 人間の証言でこれほど率直なものはない。もし人が九つの点で率直であったら、私たちは安
心して十番目のことについても彼を信用するであろう。イエスの率直さが、弟子たちが彼らの
視界を超える思考と生活の分野で、イエスを信頼した理由である。「わたしの父の家には、住
まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。」もちろん彼はそ
うした。人が知らなければならないことは、すべて語ることがイエスの天性であった。彼は、彼
からの一言が彼らをそれから解放できるのにそうせずに、彼のことばをその友らが思い違いし
たままであることを許さなかった。これらの人々は自らの内に、未来のいのちに対する本能的
な信仰を持っている。同様に正常で損なわれていない人々は、死は終わりではないと信じてい
る。彼らはより大きな視野で先のいのちには、この世で知ることのできるいかなる喜び以上の
喜びがあることを見た。イエスはこのような期待を涵養することを許容した。イエスは彼らの顔
が全部その方向に向けられているのを見たが、彼らにそれは幻覚に振り回されているのだと
はいわなかった。イエスは彼らに天国を考え、天国を望みとし、天国のために働くように導いた
が、いまや自分の地上の生涯の終わりがきたとき、彼は彼らに、この広大な世界は単なる幻
想ではないものであることを、もっとはっきりと語った。新約聖書を読むときこの思想を携えて
いなさい。そうすれば私たちがイエスについて信じている多くのことの中に新しい確信を与える
であろう。私たちはイエスには罪がなかったと信じている。なぜ?それはここかしこに「誰が私
を罪に定めることができるか?」というようなことばがあるからである。その基礎はいくぶん不
安定かもしれない。私たちは彼が決して罪深い行為をしなかったから罪がないと考えるのであ
ろうか?しかし、彼の考えと感じ方と動機を、あなたがたはどのようにして知るのか、どうしたら
知ることができるのか、そして彼の動機と感覚と思考についてどんな証明をあなたがたはもっ
ているかは、常に神がそれらについてもっているものと同じである。イエスの無罪性を信じる最
大の理由は、彼のもっとも愛した友たちが彼をそう考えた事実である。彼が話したすべてのこ
とがらのうちに、後悔とか良心のとがめの痕跡はなく、欠けや僅かな悔恨の痕跡を暗示するも
のもない。彼は他の人々を罪人と考えるよう教え、人間の心は悪いものであることを明確に主
張し、彼の弟子たちにいつでも彼らが罪の赦しを祈るようにと言ったが、自分自身については
神を喜ばせる以外のなにかを行ったということのかすかな意識をも持っていることを言ったりし
たりしなかった。これは驚くべき事であって、並ぶものがない。全ての聖徒は胸を打って言う、
「神よ、罪人の私を憐れんで下さい。」心がより清くなればなるほど低く、無限の聖のまえに頭
を垂れる。イエスはことばにも行いにも、彼が神のみ心に対する不足に陥ったことを意識して
いることを示すものは決してない。もしかれがそうであったら、そういわなかっただろうか?彼
は開いたこころを持っていた。彼はそのような重要な瞬間の事柄を偽ったであろうか?罪の意
識と罪によってうちひしがれた意識は、彼が弟子たちに赦しを求めて祈るように語ったことばを
指し示すことは決してないのではないか?彼らはイエスには罪がないと思った。開いた心と開
いた唇をもったこの人が、もっとも愛する友たちを欺いたのだろうか?彼は使徒が彼について
言ったように罪がなかった。私たちはそうであると確信する。その理由はもしイエスがそうでな
かったら私たちにそう話したに違いないからである。
つまり、彼の率直さの上に、私たちは時と永遠に関する正しさを持つのである。私たちが悔い
改めなければ滅びる、悔い改めによって天から生まれたものだけが光の王国に入ると彼が言
うとき、私たちはこれらの宣言が本当であることを信じる理由をもっている。そして弟子たちが
パレスチナでなされたこと以上のことをしようとしている、そして彼が世の終わりまで常に私た
ちと共にいると彼が言うとき、なぜ私たちは彼を信じないのだろうか? そしてイエスが私たち
に対してそのように率直で心を開いているのに、なぜ私たちはイエスに対して心をひらき率直
でないのだろうか?もし彼が私たちに彼の心にあるままを語っているのなら、なぜ私たちは、
私たちの心の中にあることを彼に真実に語らないのだろうか?イエスは私たちにご自分を与え
られた。なぜ私たちは自分を彼に与えないのだろうか?




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