十六章  イエスの寛大

 「受けるよりも与えるほうが幸いである。」 ・・・使徒 20:35

  パウロは教会の長老たちに向かって、彼らに対して他の人々に対する以上に多くの時間と愛
とを与えたと別れのことばで語っている。彼は以前彼らにしばしば語った事柄を思い起こさせ
ている。そして結びに主の語られたすべての事柄の中でもっとも輝き最も助けとなることのひと
つとして主の言われたことを引用している。「受けるよりも与えるほうが幸いである。」これらの
ことばは、イエスの肖像のもっとも麗しいものの一つ、彼の寛大さを生き生きと十分に表現し
た。
 もし誰かがキリスト者の義務のキーワードを半ダース挙げようとしたら、その人はきっと「与え
る」という語をそのリストの上位に置くであろう。その語を抜きにして新約聖書を読むことのでき
る人はいない。というのはそれが繰り返しあり、常に強調されているので心を引きつけるからで
ある。事実、ガリラヤの人は無謀かつあたりかまわず彼の与えるという論理に生きたとしばし
ば主張されてきた。「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」という
彼のことばは、多分に不思議であり耳障りかもしれない。すべての行いは愛の制限が守られな
ければならないことを思い出すなら、だれもこの勧めに驚かないであろう。人は神が与えるよう
に与えることを強く求められるが、神が与えることは常に彼の愛を示すものであり、条件付ける
ものである。神は求められた通りのものをすべての人に与えるわけではない。神は私たちすべ
てに一度ならず多数回「だめ」、「だめ」、「だめ」という。
 愛は傷つけるかもしれないものを与えるわけにはいかないのである。母親は幼い女の子が
喜んだとしても、彼女にカミソリを与えることはできないし、父親は息子に望むままのものを与
えることはできない。半ば酔っぱらった人が街角で誰かに25セントくれといっても拒否されるで
あろうし、どんな場合でも求める人は法と愛との命じていることに則して取り扱われなければな
らない。すべての考察と評価を書き下ろすために、世の中では常に、イエスは明白に不可能な
ことを言ったのではないかと問われていることを計算にいれておかなければならない。「与え
よ」という偉大な語は、無条件にそのまま投げかけるのがよい。その語は神のみ旨の啓示であ
るものとして人の心に遅らせず語るべきである。ルカは私たちにこう語っている。ある日イエス
は物惜しみしないことに関する自分の考えを明らかにして言った。「与えなさい。そうすれば、
自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふと
ころに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからで
す。」このことを理解するためにいつか農場に行き、農夫が穀粒とか小さな果実をはかるのを
観察するとよい。押しつけ、揺すり入れ、あふれさせるとは、天の王が喜ばれる計り方を心に
描くことを意図した図式的で意味深い表現である。けちな手でもってけちけちと物惜しみしなが
ら与えるのではない人は、イエスに言わせれば、世界がその人を好きになり祝福する人であ
る。彼は気前が良いことによって失うものはない。なぜなら世は寛大な原理で作られているか
らである。そして与えるという神の霊に囲まれることによって彼は造物主に調和し、いかなる意
味においても彼の報いが失われることは決してない。そのような行動にいつ報いをもたらされ
るか、厳密な時間を気にする必要はないのである。与え、見返りを問わないことは進むに十分
に値する。どこかでいつか報いがやってくることは確かであるから。それ故彼が正餐とか夕食
を作るとき、彼を招き返すと予想される彼の友人たちや兄弟たち、あるいは親戚とか富裕な隣
人を招かないようにさせよう。貧しい人、不具の人、あしなえの人、盲人、あなたに何の返礼も
できない人たちをもてなさせよう。そうすれば神から寛大な心の人々に分け与えられる神の祝
福を期待できる。その祝福は全部がこの世においてやってくるとは限らない。しかし復活のとき
にはまさしくその報いは完成する。イエスが弟子たちに述べたことを彼はすべての人に言う。
「値なしに受けたのであるから値なしに与えよ。」
 けちで物惜しみする心に対するイエスの嫌悪は、彼のたとえ話にしばしば登場する。彼が美
しい亜麻布を身にまとい宴席の食卓についている金持ちと、一方ではその人の門にパンくずを
食べている病気の乞食がいることについて語るとき、私たちは義憤の精神の熱い炎を感じとる
ことができる。納屋の穀物が溢れることと自分の快楽しか考えることのできない富める人につ
いて語るとき、彼のことばには酷評の軽蔑がある。マタイの20章の時の譬えの記録の中で、
非常にけちで狭量な人々へは譴責のみであって、彼らを寛大に扱うことは示されていない。ぶ
どう園の主人は一日中働いた人々に約束したとおりの賃金を支払ったが、彼は気前のよい心
であったのでたった一時間働いた人々にも一日働いた人とおなじだけ支払った。彼は気前が
よいことを望んだのでこのようにしたのである。自己中心で盲目の人々はつぶやきはじめた。
その麗しさで彼らを魅了するはずであった行為は、彼らのねたみとひねくれた不快感をかき立
てたに過ぎなかった。その物語はイエスがいかに寛大に考えるかを明らかにするものであっ
た。新約聖書の中に、あの女が彼の頭と足に400ドル(註:労働者の300日分の給与に相当
する金額であったから、現在の貨幣の価値では遙かに大きくなる。)の価格の香油を注いだこ
とを惜しまなかった以上の溢れんばかりの賞賛をあなたがたは発見するであろうか?彼のそ
ば近くのみじめな魂はそのような出費を不快に思ったが、彼はそれを好んだ。彼はその出費を
愛の費用であると評価した。彼がこの世で所有している全財産である2枚の銅貨を神殿の献
金箱に投げ入れた貧しいやもめを見たとき、彼は私たちの多くがそういうであろう愚かな行為
だと批評しなかった。そうではなく彼はハレルヤの音楽をそのために叫びだした。「彼女はこれ
らのすべての人々より多くを捧げた。」と。世はけちで財布のひもを固く締めている人々であま
りにも満ちているので、与えるという神の行為をマスターした人物を見ると、偉大な彼の心は愉
快さを感じたのであった。彼は自分が常に与えるひとであったが故に、与える人々を愛した。
 与えることは貰うことより幸いだと彼が言った時、彼は自分の経験を語っていたのであった。
彼はそれを書物で読んだのではなかった。彼は自分の生活の中でそれを見いだした。彼が無
償で、豊かに、気前よく、喜んで、常に与えることを主張したとき、彼は自分が実践していたこと
を語ったに過ぎない。彼は与えるお金は持っていなかったが、自分の持っているものを惜しみ
なく与えた。彼は時間を持っていたからそれを与えた。彼の最も良い時を彼らに与えた。彼は
すべてを与えた。彼はそれを意に介せずかれらに与えたので、彼は祈るために他の人々が眠
っている時間を使わなければならなかった。彼は力があったのでそれを気前よく与えたため彼
の友たちをびっくり仰天させた。彼は自分のエネルギーを最後のひとしずくまで与えた。私たち
はあるとき彼がヤコブの井戸のそばで疲れて座っているのを見る。他の時には彼が、彼をカペ
ナウムに運んでいる小さなボート上で船底をまくらに眠り込んでいるのを見る。彼の生涯の最
後の日に、彼らは彼の肩に木の梁を担わせたが彼はその下によろめき倒れた。彼は先立つ
一年間に過酷な仕事をすることによってそのように完全に消耗しきっていたのであった。彼は
他人を救ったが彼自身を救うことは知らなかった。彼は思想を持っていてそれを与えた。彼は
理想を有し、それを彼らの上にまき散らした。彼は真理をもっていてそれを人々に分け与え
た。種を蒔く人が種まきにでかけるのを見なさい!それはイエスのことである。彼を見よ。彼の
腕が振られるのを見つめよ。なんと気前のよい腕であることか!彼は道ばたに種をまき散らし
た。なんでもない。彼は岩地に種をまき散らした。それがどうしたというのだ?彼は種を茨で塞
がれている角にまき散らした。それを気にかけることはない。種は豊かにあり、彼は物惜しみし
ない手でもってそれをまき散らしたから、そのうちのあるものは肥沃な地を見いだし、神のここ
ろを喜ばせる収穫をもたらしたであろう。数々の教師たちが自分の最高の理想を彼の理念の
いくつかから選び取った。イエスはくまなくまき散らしたのであった。彼は時には無知で、偏見に
満ち、応答しない聴衆を前にしたが、彼は出かけていったどこにおいても両手いっぱいの真珠
を投げた。ガリラヤの農夫たちの群れに、なんと栄光に満ちた理想をまき散らしたことか!世
が気にもとめない男たち女たちに、なんと天の真理を広げて見せたことか!理想をまき散らす
ことにそのように浪費家の教師はいなかったし、偉大な思想家はそのように乱暴に計り知れな
いほどおびただしく自分の宝を注ぎ出すことを決してしない。彼はただで受けたので、ただで与
えた。
 それは単なる知的な仕事ではなく、彼が与えた心の血潮であった。彼の人々に対する愛情
は常に十分なひとつの川となって流れた。彼の同情は、いかに低く軽蔑されていようとも、彼に
空しさを見せた人々であっても、すべてのクラスの人々をカバーした。イエスがそこを通るとき
いた道ばたにいた盲人たちは、彼が通り過ぎるとき叫んだ。「私たちを哀れんでください。」犬
よりも悪い扱いを受ける汚れたものと数えられるらい病人たちは、イエスが彼らの道に現れる
と癒しの手で触れることを求めた。普通のユダヤ人が非常な世の汚れとみなすサマリヤ人た
ちも、この新しい教師は彼らの味方であり友であることを知っていた。彼が神殿から商人たち
を追い出したとき、盲人と足なえの人々が彼のもとにきた。彼らは追い出されないことを知って
いたから。愛は神経質な血を散らし、同情する彼はエネルギーの泉に強く引き寄せる。このイ
エスは常にそうした。彼は愛の心を持った人であった。彼は友たち彼の敵たちをも愛した。彼
ははじめから彼らを愛したが、終わりまで彼らを愛した。彼が弟子たちのうえにまいた愛は、彼
らを清め、彼らを決して切れることのない絆で彼に結びつけた。そればかりでなく、彼の愛は彼
を嫌い、彼を殺そうとたくらむ人々にも行き渡った。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分
が何をしているか分からないのです。」このような祈りにイエスの愛の心が明確に表されてい
る。彼は彼の愛を気前よく注ぎだしたが、それは神の寛さを人々に気づかせるものであった。
時と力と同情と愛を与えることによって、彼はついに自分のいのちをもあきらめなければならな
かった。これ以上のものを与えることのできる人はいない。彼は、状況の故の望まない犠牲者
や、支配できない政治的な力に望みのない祈りをしたのでもなく、シーザーやウィリアム・サイ
レントやリンカーンのような殉教者でもない。彼は己のいのちを意識して熟慮のもとに与えた。
彼のいのちは事故や定めによって取り去られたのではなく、偉大な値の支払いのため自らの
意志で自由に引き渡されたのである。繰り返し繰り返し彼は熱心にこのことを明らかにした。
「私は私のいのちを捨てる力があり、再びそれを得る力があります。」と彼は言った。彼が人々
の必要に仕えるために世にきて、多くの人々の贖いのために自分のいのちを与えることは、は
じめから彼が納得していたものであった。彼のいのちを与えることによってのみ人の心を和ら
げることができ、失われた世を父の家に引き戻すことができるのであった。
 従ってこれ、すなわち・・ひとつのとぎれることのない寛大で限りのない愛の約束・・がイエス
の地上の生涯であった。彼の品性のうちに私たちは人間に可能であることを見るのみならず、
永遠者の品性の啓示をも見る。「わたしを見た者は、父を見たのです。」そうイエスは彼にもっ
とも近くいた人々にいった。それはしばしば私たちの考えにもいえることである。イエスの品性
の研究のなかで、私たちは人の可能性のみでなく、神の意志の記述にも光を与えられる。イエ
スによって神の性質を啓示されたが自然によっても啓示された。自然の神は常に気前のよい
神であることが知られている。日と夜に、空と海と地に、季節の変化に、すべて神の驚くべき気
前の良さが証拠立てられている。神はそのなされることすべてに豊かである。神はそのすべて
の恵みを惜しみなく与えられる。神は王の豊かな気前のよさで良い物をまき散らすのである。
神はわずか数千の星をまき散らしたのではなく、数えることのできない何百万もの星をまき散
らした。神は私たちが数え上げることのできる数の花を創造したのではなく、想像を絶するお
びただしい花を創造した。神は人の目の注意の及ばない夕映えを投じられる。神は実を結ぶ
木にその木が必要とする以上の花をお与えになる。神が決められたどの祭りにおいても、あま
りが十二のかごに満ちるパンくずがある。彼は気前が良く、自由で、麗しく、もの惜しみされな
い神である。
 彼は常に変わらず気前がよく豊かで十分に溢れさせなさる。彼は枡を満たし、押し入れ、揺
すり入れるので、それは溢れる。枡はみごとにあきらかにいっぱいになるので豊かに使われる
ようになる。彼は石膏の壺を私たちが生きる日々、私たちの上で割られる。彼は私たちの前に
テーブルを広げ、私たちの杯を溢れさせる。一千ものおいしい食物があり、見るに好ましい一
千もの物があり、一千もの非常に楽しい経験があり、一千もの学ぶに値する真理があり、捕ら
えることのできる・・私たちが許されている短い一生の間になしえる以上の一千もの機会があ
る。自然の分野で彼はまちがいなく気前よく当惑させるほどおうような神であり、魂の世界にお
いても神は自然の世界におけるのと同様なのである。イエスは言った。「求めなさい。そうすれ
ば与えられます。」そうすることに尻込みしてはいけない。あなたが誰であるかは問題ではな
く、そうするかどうかなのだ。「だれであれ、求めるものは受けます。」これは、創造のなかに深
く座を占め、神のこころに深く根ざしている永遠の原理であり、求めに対する豊かな王の贈り
物なのである。それは私たちを神に連れ来たるキリスト教の目的である。神は私たちが求めよ
うとし考えることができるものを私たちに与えようとされるのである。イエスの寛大さはすべての
ものの父の計り知れない恵みをわたくしたちに思い起こさせることを意図している。彼のメッセ
ージは私たちが儲けたり蓄えたりしなくても、神が私たちに物惜しみせず喜んで与えてくださる
開いた手をもたれるが故に、常に得られると思うことによってわくわくさせる。
 もしあなたがたがイエスはなぜ寛大であるのか質問するなら、その答えは、神は愛であるか
ら、である。いつ愛は物惜しみしない以外のものとなったのか?いつ愛はよいものをけちで物
惜しみをするみじめな手で取り扱われたことがあったろうか?ペテロが赦しの限度を示す十分
な回数を提案したとき、イエスは彼に数えることはやめなさいと言った。愛は決して数えない。
いつ母は自分の赤ちゃんにキスをする回数を数えただろうか?いつ友がその友人に向かって
彼の愛顧の数の目録を作っただろうか?あるいは両親が彼らの子どもたちに与えるよいもの
のリストをつくったであろうか?愛は決して数えない。与えることは愛の性質であって、より多く
のものを与えるための新しい方法を工夫し、提供されるものの必要を追加することを思い描
く。イエスは父親たちに言った。「自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでし
ょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」「あなたがたは、悪い者で
はあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこ
と、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがあ
りましょう。」もしあなたがたが神の心の寛さを疑問に思うよう試みられたことがあるなら、イエ
スを見なさい!かつてこの世の歴史にその極みまでも惜しみなく与えることを喜んだ人がい
た。彼は与えることは受けるよりも幸いであることを誰よりもよく知っていた。彼は誰かの必要
を満たすためだけではなくその代行者として生きた。受けるためではなく与えるために。自分
の命を救うためでなくそれを他の人のために注ぎ出すために生きた。もしその当時寛大さがそ
のように顕されたのであったなら、永遠者のこころが寛大であるからである。もし恩寵がそのよ
うに美しく地上に花咲いたのであるなら、私たちはまさしく天において同じ恩寵を期待できるの
である。

神の恵みに広さがあるなら
 その広さは海の広さのよう。
彼の正義に親切があるなら
 それは自由にまさる。
罪人をも歓迎するのであるなら
 良い人々にはさらなる恵みがある。
救い主の憐れみがあるなら
 その血には癒しがある。

神の愛は人の心の思いはかる
 ものより遠くに及ぶ。
永遠者の心は
 もっともすばらしい親切である。 
もし私たちの愛がもっと単純であるなら
 私たちは彼のことばによって彼を取るであろう。
そして私たちの人生はすべて太陽の光のようになる
私たちの主の甘美さの中に。



戻る
戻る