第十五章  イエスの堅さ 

「サタンよ。わたしの後ろに退いていなさい。」 ・・・マタイ 16:23

 今夜は、イエスの堅さについて考えよう。彼の柔和について、同様にまた彼の優しさや恵み
深さについて私たちはしばしば考えている。これらの慕わしい恵みに心は喜びを感じるのであ
るが、それらの上に落ち着いてしまうことによって、ともすれば私たちは、ほかの姿を見てもそ
れがたいして美しくなく、賞賛に値するものではないと思ってしまうのである。天性の柔和さはそ
れが意志の堅固さを伴わないならば徳ではなく欠点である。気質の穏和さは人を有能かつ高
貴にするに十分でない。穏和さと共に強さがなければならないし、ビロードのような柔らかいム
ードの下に鋼鉄のような意志の堅さが横たわっていなければならない。
 社会的な力に支配される人間の弱さは、歴史が顕著に示している悲劇のひとつである。これ
らの力に抵抗し制御するに十分な強さの意志を建てあげることは、教育の中心的かつ難しい
仕事である。昔の格言に、悪しき交わりはよいモラルを損なうとある。人はすべて多かれ少な
かれ自分が属している社会によって型にはめられる。子どもは仲間の考えや習慣に速やかに
従う。そして彼の血筋がどのようなものであったかには関係なく、彼の環境が腐敗したものであ
ったなら、それが速やかに彼に滅びをもたらすことであろう。この感受性は子どもに限った特
質ではなく、人生のすべての段階を通して私たちが持っているものである。大学にいる若者は
彼の最も近くにいる彼の級友から強い影響を受ける。しばしば少数の大胆で親分的な人物に
は千人もの人々がその人と歩調を合わせてしまうのである。ビジネスマンも大学の学生と同様
に感化されやすく、人々の中にいる少数の支配的な人物に屈するのである。社会の奴隷とな
るということが、長い間倫理学者や風刺家の主題のひとつとなってきた。自分が生活している
世の伝統や流行にあえて逆らう人は真に強い人物である。最も強く最も独立心を有する人でさ
え、しばしば良心に反する規則に頭を下げ、心では反対する習慣に屈服する。人は群衆や群
れの中で生きていくうちに、あまりにも不合理あるいは腹が立つ束縛すらもそれなりに受け入
れうるものとなるのである。大方の人は自分自身の姿でいられるほど強くはない。彼らは隣人
のいうことをそのまま言い、他の人の足跡のついた道をたどる。凡ての人々の心に印象を残
すその時代の精神がある。最も強い人々であってもそれらから完全に自由であることはできな
い。ローウェルが言ったように、「人は誰でもその時代の囚人である」のだ。私たちはクロムウ
ェル、カルヴァン、ルター、ヒルデブランドやアウグスチヌスを弁護してこう言う。「彼らが生きた
時代を考えてみろ!」
しかし私たちがナザレのイエスのもとにくるとき、誰一人彼を曲げることがなく彼を支配すること
のなかった人の前にいるのである。あたかも彼は全時代の全人種に属するかのごとく人種の
垣根には全く自由であり、彼の時代の世の風潮に染まっていなかった。彼はダビデの子ではな
く人の子であった。正しく純粋で最高の人間であった。彼は一世紀の初期の市民であったばか
りではなく、続くすべての時代の人々とも同世代であった。一生の間、常に激しく彼を打つ大き
な力の海に浸りながら、勝利の意志の不屈の力によって彼はそれら凡てを十分に阻止し、時
と場所の制限に損なわれることなく麗しく業を成し遂げるユニークな生涯を送った。彼は当時
の支配者の力に無感覚であったわけではなく、自分が受けた誘惑のできごとを私たちに語っ
た。彼の同胞たちはメシヤについての固定概念を描いていた。メシヤは不思議な業をなす人
であり、その力は目を見張るような圧倒的なものであるべきであった。その方は敵対するもの
の力を足下に踏みつけ、パレスチナを世の中心となすのであった。これこそが彼らの夢であ
り、期待すべきものであったのである。最善の人々もこれを期待したし、最悪の人々も同様で
あった。一般の人々の期待を裏切ることは危険である。同様に国民の希望の火を消すことは
ほとんど狂気の沙汰である。善良で偉大な人々も、いずこの地、いかなる時代においても、すく
なくとも彼の同胞の望み要求する特定の事柄に関しては、彼ら自身を曲げることに困難を見い
だしはしなかった。それらはみな十分もっともらしく思われるからである。その主張には慣れて
いる。私たちは現代においてさえもそれを聞いている。国民の世論が明白にしている期待に反
対して立つ人が誰かいるだろうか?神がみこころを示すのは国民を通してではないのか?
人々の判断に反対して一個人が自分の判断をするのは利己主義とか正気でないということで
はないのか?これは多くのリーダーが鋭い刃であると感じた議論であり、ナザレのイエスもま
たそれを感じた。彼が行くところどこにおいても人々は王よといって騒いだ。彼らの望む王は難
破したシーザーの帝国に打ち勝つ支配権を打ち立てるべきであった。国民の革命への期待は
熟していた。彼の一言は火花のごとく、大火を燃え立たせることになったであろう。期待はエホ
バに油注がれた人々によって建てあげられてきた。この期待は熱をおびていたので、彼らの
理想を受け入れ、彼らが心を定めているプログラムを実行することなしに、どうして人々の注
意を勝ち取り、あるいは彼らの生き方の潮流をコントロールすることができたであろう?それは
ひとつの大きな誘惑であって、使徒たちに全部を語ることは非常に恐ろしいことであった。この
誘惑の中にあってイエスは弟子たちに、自分は地獄の力の長と戦っており、繰り返し猛攻撃を
受けているにもかかわらず戦いに勝利したことを明らかにした。ゲッセマネとゴルゴタとを通っ
て至上権に導かれる道を選択することによって、彼の同胞の理想を拒絶し、彼らの最も望んで
いた期待を失望させた。神の選民を通して語る地獄の軍団も、イエスをその立場から動かすこ
とはできなかったほど彼は堅固であった。国民は狂ったように彼に打ちかかったが、彼は動か
されなかった。彼は千歳の岩であった。
 私たちが彼の生涯を、注意深い目をもって研究するとき、私たちにはそれが彼の時代の力
に対する長期に渡る抵抗であったことが分かる。彼は愛国者であったが、彼の同胞のどの愛
国的プログラムあるいは期待することについても彼らと一緒に進むことはできなかった。彼は
熱心な教会の信者であったが、彼はいかなるユダヤ教会の会員とも彼らの好みの教えや儀式
を一緒にすることができなかった。宗教の教師たちは安息日の教義を教えたが、彼はそれに
同意しなかった。彼らは礼拝の形式を示したが彼はそれに従わなかった。彼らは分離の境界
線を設けたが彼にはそれを守ることは不可能であった。当時のもっとも宗教的な人々に深く根
付いた感覚に逆らい、町のもっとも良心的な人々の偏見の殻を破ることは決して容易なことで
はなかった。イエスが当時の教会の理念や習慣に従うべきだとする理由がたくさんあった。彼
が受け入れなかったことは多くの人々から不敬虔、冒涜と見なされたが、彼はそれに一致すべ
きだと主張するすべての声を固く退け、当時の最良の人々の語り行うことにひとりで敢然と対
抗して立っていた。神を敬う人々にとって、冒涜者たちの仲間に数えられることは、人の心の
知りうる最も苦い経験のひとつである。しかしイエスはその代償を払い、毅然としてそれを続け
た。
 著名な指導者は通常の人々を凌駕する影響力を有する。パレスチナにはその学識と地位に
よって同胞たちの信任と尊敬を得ている人々がいた。人々に対する指導者や教師たちとして、
彼らは彼らの計画とシステムを持っていて、彼らはこのガリラヤから来た若者にそのために働
いてもらおうとした。彼らは彼が力の人であることを認めたので、彼を操って彼を使おうと思っ
たのは当然の願望である。高尚な運動を推し進めようとしつつ、その当時の最も影響力のある
人々に対して僅かでも敵対する人はいなかった。その人はできるだけ速く彼らに屈し、その良
心が許すならその人は彼らの気まぐれや移り気にもすぐさま譲り、可能であるなら彼らとすぐさ
ま一緒に進むであろう。しかしもし彼が力の人であるなら、彼は自らの主義を妥協させることな
く、その顔を別なゴールに向けている人々の手に陥って、勝利を危険にさらすことを決してしな
いであろう。イエスは決して操られたりしなかった。彼は利用されることを拒んだ。ある一派、次
の一派と次々と彼らの企みに彼を利用しようと試みたが、彼は頑固として動かされず、彼の独
自の束縛されない自由な道を進んだ。王座に座っている人々の提供するあらゆる誘惑も彼を
道からそらすことはできなかった。そして彼の固さが彼に多くの敵をもたらし、ついには彼を十
字架に釘付けするに至らせたにもかかわらず、彼はどこにおいても常に動かされることのない
人であった。
 敵に操られることに対しては非常に強い人々がいる。しかし彼らは友人の手によっては鑞(ろ
う)のように柔らかにされる。イエスは友人たちによってさえ操られることがなかった。彼はナザ
レに多くの友人がいたが、彼らを喜ばせるために自分の主義を捨てることは決してしなかっ
た。彼らは偏見と盲信をもっていたが、イエスは決して彼らに譲歩しなかった。彼は彼らの頑固
さと偏狭さとを知っていたので、最初の説教でシリア人のらい病人とシドン人のやもめに対する
神の憐れみの話をした。彼の説教は彼の予想を上回る嵐を巻き起こしたが、彼はひるむこと
なくその激怒を受け止めた。彼は自らが語るべきであると分かった時には沈黙しなかったし、
生涯追放の身となっても彼が通らなければならないと知った道は決して迂回しなかった。隣人
たちの尊敬と好意は実に心地よいものであるが、主義を曲げることによってそれを買い取るべ
きものではない。しかし恐らくナザレのとなり人で、イエスの親密な友であるシモン・ペテロほど
イエスの心に近づいた人はいなかったことであろう。イエスの生涯の危機に当たってペテロは
定まった道から彼をそらそうと一心に忠告したが、忠誠と愛の友も最も敵意に満ちたパリサイ
人たちと同様に成功しなかった。このナザレの人は友によっても敵によっても動かされなかっ
た。彼が意図していたことは天父の事業であった。それ故彼を脇道にそらそうとしたすべての
努力は虚しかった。「わたしの後ろに退いていなさい。サタン。」と、彼はペテロを仰天させた。
イエスは何年も前、荒野で戦った悪の霊をペテロの内に見たのであった。恐ろしい力のある敵
を拒絶することは困難であるが、愛する友のいさめに耳を閉ざすことは一層困難である。確固
とした意志の人のみがそのような重い課題の試練に耐えるのである。イエスはそれに遭遇した
が、失敗しなかった。
 イエスには自分の家で直面した試練があった。彼の兄弟たちは彼を理解しなかった。兄弟た
ちの理解不足は彼らがイエスに共感することを妨げた。彼らの見地では、イエスはしばしば分
別のない行動をとったし、自分が名声を得るために有利なことをすることを拒んだ。彼らはい
つも忠告する用意ができていた。しかしイエスはそれを取り上げなかった。彼らはイエスが行く
ことのできない時に、エルサレムに行くよう主張した。彼らはイエスが他の場所に行かなけれ
ばならない時に、家に帰るよう強く勧めた。良心に駆り立てられて、自分の家族の願いとは反
対に進んだことのある人だけが、イエスが悩まされた経験に踏み入ることができるし、愛の懇
願に十分に抗することができる意志力を示すことができる。
 この意志力の試練は、イエスの母との葛藤によって頂点に達した。彼女は彼を愛し彼は彼女
を愛した。しかし彼は常に彼女の願いを実行できるわけではなかった。多くの人々の生涯には
自分の母の願いをも、より高い使命のために無視せざるをえない時があるものである。そのよ
うな経験がイエスにも訪れた。剣がマリヤの心を刺し通すことであったが、その剣は同様にイ
エスの心を貫いたのであった。十二歳の時の神殿における痛みに満ちた経験は、おそらくイエ
スの生涯における同様な経験の最初のものであったことであろう。そしてそれは確かに最後の
ものではなかった。マリヤとの絆(きづな)はイエスにとって天の父との絆ほど固くはなかったの
であって、マリヤの願いが天の父の願いと対立する時には、この婦人の願いは、神の意志を
なすために脇に押しやられたのであった。 それ故ここに真に悩まされる状況がある。もっとも
優しく恵み深い親切な人々が、彼の同胞の祈りのみではなく彼の家族や友たちの願いを退け
ることを強いられる。彼は困難の海の真ん中に岩のように立っている。そしてそれらの大波は
彼の足下にむなしく砕けるのである。自分の意志では曲げられないものがあり、その魂には花
崗岩のようなものがある。彼は自分の教会の第一のメンバーに値すると思った人を見いだし
て、その人を「岩」と呼んだ。このことから私たちは、この岩のごとき特質が、永続するひとつの
団体を建てあげるために絶対に必要なものであるといえないだろうか?イエスが他の人々のう
ちにある不動性を好んだことは確かである。そして彼は自分のうちに有り余るほど持っている
ものが他の人々のうちにあることを愛した。彼は自らが毅然としていたから、動かされない
人々を愛した。彼自身打ち負かされることがなかったから、忍耐することができ決してたじろぐ
ことのない人々に彼の福音を委ねた。すきに手をつけてから後ろを振り返る人々を、彼は世を
救う事業に用いることができなかった。塔を建て始めてからその事業を放棄する人々は、吹き
出されあざ笑われる対象にすぎない。救いは終わりまで忍耐できない人には提供され得ない。
 この堅固さこそ、キリスト者の品性の欠くべからざる要素であることを、私たちは悟るのであ
る。人々は外からの力に対抗し、内側からのものをもってその命を形成する。彼らは時代の意
見に従うべきではなく、彼らの心にある永遠者の霊に従うべきである。彼らは時代の声に耳を
傾けるのではなく、永遠のために生き働くべきである。私たちは人間の品性の中にこの堅固さ
があるのを望み、また神の中にもそれを切望する。人々は常に、神は不変であり、変わること
ができない方、「移り変わりや、回転によって投げかけられる影はありません」というお方であ
ると思って慕ってきた。私たちは神に望むことをナザレのイエスに見いだす。彼もまた不変であ
り変わることができないお方である。ある一世紀の著作者が「イエス・キリストは、きのうも今日
も、然り、永遠に同一である」ことを記憶させることによって、読者を勇気づけた。イエスは自分
を岩と呼ばれたことは決してなかったが、キリスト者の心はただちに彼にその名を冠した。英
語圏の社会においては、以下の歌ほど世に知られている讃美歌はほとんどないことがそれを
実証している。
時代を超えた岩よ(千歳の岩よ)、私のために裂け!
      その中に私を隠して(包んで)ください(我が身をかこめ)
パレスチナにおられたところのイエスは、今日も永遠の先までもそのとおりであられる。彼のす
べての約束は振るわれることがなく、彼の警告は変わることなく残り続ける。彼の罪人たちに
対する態度は、今日もはじめからのものと変わらずにあり、終わりまでつづくであろう。あなた
がたは自分の忘恩によって勇気を失うことはないし、あなたがたの不従順によって彼を変える
ことはできない。彼は人の愚かさによって折られることはなく、人間の悪さによって彼のご計画
を投げ出させることはできない。世から世に彼の父の事業をなし、あらゆる国民、人種、言語
の真ん中に、彼は行って善い業を行うのである。


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