第十三章 イエスの楽天主義

 「元気をだしなさい。」 ・・・ヨハネ 16:33

 楽天主義は、しばしばこの野心的な名称を勝手に冠している軽々しく、無思慮で、成り行き任
せの快活さを意味しない。もしあなたがたが楽天主義者を、陽光の下で遊ぶだけの人々、調
和のとれたこと以外なにも耳にすることができない人々、自分あるいは他の誰かについてすべ
てのことがいずれうまくいくと夢想しているために世の悩みと悲劇にほとんど関心を持たない
人々と定義することを主張するなら、イエスは楽天主義者ではない。不合理で不道徳な感傷的
楽天主義が存在する。それは狭い思考と愚かな心の産物である。それらはすべての忌まわし
い事実に目を閉ざし、恐ろしい物音に耳を閉ざし、代わりに世のすべてがうまくいっていると主
張するのである。この種の楽天主義は、勇気からでなくモラルの欠如から生まれる大胆さによ
って未来に面と向かう。それは、物事には逆らうことのできない上昇傾向があるものであって、
いかなる人物あるいは人々の集団の行為も、最後には全部よくなると仮定している。そのよう
な楽天主義は新約聖書の中には見いだされない。
 もし私たちのうちにそんな上辺だけの楽天主義者がいるとしたら、視野が狭く、近視眼的な
悲観論者もいることになる。ものごとの暗い面を見ることに天才を持っている人々がいる。彼ら
の耳は争いの音に鋭い。彼らは目を大きく見開き、燃える光によって世の生活の悲劇を見る。
苦しみと不幸と悲哀、悲しみ、悪と罪をよせ集め、精神と心に対し、前者がくらまされ、後者が
病気になるまで大きい負担をかけるのである。これらの人々は歴史が恐ろしい悪夢であって、
それが詛いに見えるまで、世のため息とすすり泣きと苦悩を聞くのである。そんなだれかが今
夜あなた方に話すとしたら、きっと彼はあなた方の心を引き裂き暗くする話をあなたがたにす
ることであろう。彼は大なり小なり盗人や強盗がそれをなしていることをあなたがたに思い出さ
せるであろう。彼は富への欲望と肉欲、最近この世界のどこかで起きた残虐さと無法の出来
事にあなた方の注意を呼び覚まさせることであろう。彼は最近のひと月に行われた暴虐と残虐
行為、悪事の記録をあなた方の前に厚く積み重ね、これらが一掃されなければすべての物事
は犬にくれてやるようなものだというであろう。これらの悲観論者たちはいたるところで声を張り
上げている。彼らは私たちにこういう。共和制度の団体は退廃へのプロセスだ。それらが私た
ちの町を望み無いまでに破壊し沈める。その共和制度自体が滅びる日も数えられている、と。
それ故社会には、何の健全さもその内にはないのだと。
頭から足の先まで膿の出る傷しかない。バビロンは私たちの贅沢には決して及ばなかったし、
ローマは私たちの破廉恥さの深みには決して届かなかった。教会も他のすべてのものと同様
に腐敗しつつあり、ただ火刑にされるのみが相応しい。私たちは勇気を保つために口笛を吹く
かも知れない。しかし私たちに続くものは・・大洪水である。世は深淵の縁めがけて非常に危
険な場所を走り続けている。このように考え話す人々は少なくない。19世紀の二人の著名な
作家、トマス・カーライルとジョン・ラスキンはその性向と見解において悲観論者的であった。こ
のスコットランド人は金切り声を世に満たし、イングランド人はため息をもって世を満たした。数
え切れない無名の人々が彼らの鼻を鳴らすこととすすり泣きで世を満たしている。歯を見せて
笑っている楽天主義者たちとヒステリックな悲観論者たちから私たちが期待できるものはな
い。彼らはこの世の大きな問題に対する解決策を提供する何ものをも持ち合わせてはいな
い。
 私たちの新約聖書を開いて、これらの混乱し取り乱している時代に、信頼と望みを私たちに
与えることのできるひとりの人物に聞くことにしよう。ナザレのイエスは、この世の悲しみと心の
痛みから目をそむけることのできる人ではなかった。彼ほどしっかりと目を見開いていた人は
いない。彼はすべてのものごとを見た。彼は世が気づかずに通り過ぎるものごとをも見た。彼
はどんな形の悩みをも見た・・それが彼の心の琴線を強く弾いた。人々の疲れ、悲しむ顔は彼
を捉えて離さなかった。彼らはこの世の病んだ心の悲しみを彼に語った。彼はすべての苦悩の
悲鳴、悲しみ泣く声、欠乏のため息を捉える耳を持っていた。彼は物事を穿つ目を持って見
た。苦難の悲惨さの陰に、より暗黒な罪の悲惨さがあることをイエスは見たのであった。この
世の人生の表面的な事柄の下に、彼はその力、望み、喜びを食い尽くす癌を見た。彼は悪の
恐ろしい力以外には何もないと悟ったのである。彼は目を開いて死に至る道を見たのであっ
た。それだけよく分かっている人はかつて誰もいなかったのだが、悪魔が必ず抵抗することと
罪に直面し組み伏せなければならないことに対して、もがき、苦しみ、死ぬことによってのみ勝
利を勝ち取ることができることを彼はよく知っていた。それにもかかわらず彼は決して怯まなか
った。彼は勇気を失わなかった。彼はすべてを見、すべてを聞いたが、決して望みを失わなか
った。彼はありのままの事実に直面し、それらがどうなっていくかという事実をよりよく察知し
た。イエスは両面を見ている・・明るい面と暗い面・・そして両面を見つつ彼の顔はそれに関す
る光を持っている。彼は歌い、またすすり泣いた。彼の歌声はしばしばすすり泣きによって中
断されたが、彼は決して圧倒されなかったし、決して譲らず、彼の頭は常に上げられていた。
そして彼の尽きることのない勧めは「元気でありなさい!」であった。
  これが新約聖書の支配的記録である。それは世に知られているもっとも暗黒な悲劇の中心
から出てくるのである。語らなければならない陰鬱な出来事を考え続けるなら、新約聖書はな
んと悲しく人を落ち込ませるものであることか!!新約聖書は悲しみと悲哀を知っていたひとり
の人物の生涯を私たちに提供している。それは彼の残酷な苦難と、十字架上の恐ろしい死に
至るまでの期待を裏切られた年々を表している。新約聖書はきたるべき悲哀と喪失と滅亡の
恐ろしい預言を物語っている。ガリラヤの中心的な町は滅びに向かって疾走しつつあり、一千
年の間勝利の栄光に輝いていたエルサレムさえ、その壮大な建物はひとつの石の上に他の
石が載っていることがないまでに決定的に破壊されることが告げられている。それは完全に滅
んでしまうことであろう。この心を打ち砕く物語にも拘わらずなお新約聖書は私たちを落ち込ま
せないし心に陰を残さない。それは喜びに満ち人の心を浮き浮きさせる本であり、耳の中でも
っとも長く響くことばは、「元気でありなさい。私は既に世に打ち勝っている」である。新約聖書
は一つの福音である、ひとかけらの栄光あるニュースである。なぜならその中心に、この世の
最大の楽天主義者がそこに生き働いているからである。
 ここに私たちが探し当てた楽天主義者がいる。それは私たちに信頼を吹き込み私たちに望
みを与えたその人である。私たちは目、耳、心を開いているひとりの人、物事をあるがままに
見、夜の帳の濃さを知っているひとりの人を要する。私たちは平安がないことを知っている時
に「平安」と叫び続ける指導者にはついていけない。そして私たちは全てがうまくいくと主張する
教師を信頼できない。というのは彼らの主張はこの世の日々の経験に矛盾しているからであ
る。嵐の無情さを、そして同様にその後に続く静けさを感じることのできる人が欲しい。夜の長
さを正確に値積もり、同様に栄光の夜明けを見ることの出来る人を私たちに与えよ。イエスは
楽天主義者の王子である・・彼の楽天主義は神ご自身の楽天主義である。 イエスの楽天主
義の秘密を見いだすことに挑戦しよう。その秘密は大部分福音書の全ページに渡って記され
ている。それは隠して置くにはあまりにも貴重な秘密であった。・・イエスはそれを、耳を持ち聞
くことのできる全ての人々に与えた。それは神への信頼の中に存在するものであった。私たち
は彼に信頼する ・・しばしば。私たちの信仰は曇り、ときどき中断する。それは海の潮のよう
に満ちたり引いたりする。イエスは決して疑わなかった。彼の視界は曇ることがなかった。彼の
信頼は完全であった。彼にとって神は常に側にいる父であった。父が彼の神を呼ぶ新しい名で
あった。イスラエルの預言者たちも詩人たちも、ほんの稀には神を父と考える冒険をしたが、
それはただぼんやりとした推測によるに過ぎなかった。イエスにとっては、神は常に父であっ
た。これは彼が十二歳の少年であったとき彼の唇に登った名であり、この世を去り次の世にゆ
くとき彼の唇に登った名であった。彼は彼に従う全ての人々のくちびるにその名を置いた。彼
は、人々の神に対する信仰があまりにも薄いので、いつも驚いていた。「神を信じなさい!」こ
れは彼が生きたとおりに生き、彼の業を行おうと願うすべての人々の心を鼓舞するための勧
めであった。その語には秘密を解き明かす力があった。というのは完全な信頼の奥義を知っ
た心の血潮で暖められたものであったからである。
 神への不動の信頼に沿って、人は振るわれる事のない大胆さの中を歩むのである。イエス
は人間の天性を信じていた。彼は人間の心の可能性とその能力を見た。彼は、人の小ささ、
脆さ、悪さ、罪を見たが、これらすべての下に神の像に創造された人間の魂を見た。人間の最
奥に、イエスは人間の野獣性ではなく神に似た性質を見たのであった。ヨナの子シモンが町中
から気まぐれで動かされやすい人物であると思われていた時に、イエスは彼を岩と呼んだ。イ
エスはそれこそが彼の最も深いところにあるものだと見たのであった。彼は教会に行く人々だ
けでなく行かない人々をも同様に信じた。彼は取税人たち、罪人たちに望みを置いた。彼はザ
ーカイが悔い改めることができ、マタイが説教者になれることを知っていた。彼は底辺で倒れて
いる男も女も再び起きあがれることを信じていた。「売春婦たちがあなたがたより先に神の国
に入るであろう!」・・人間の天性の回復を信じられない頑なな悲観論者たちに彼はこう言っ
た。人は、たとえ真理を離れ、よろめき、堕落しているとしても、信頼することのできる存在なの
である。彼はその内に正に神の本質と本性を持っているのである。それ故イエスはシモン・ペ
テロにいった、「あなたは岩である。この岩の上にわたしは教会を建てよう。ハデスの門もそれ
に打ち勝つことは決してない。」と。なんと卓越した信頼であろうか!だれかがそれに対抗して
も、宇宙にはそれを可能にする力を提供できない、打ち負かされることのない団体を人間が造
ることができるのだろうか?難攻不落の壁を人間の天性によって建てられるのだろうか?人間
の心に永遠の基礎を置けるのだろうか?然り。イエスは言った。イエスは彼の使徒たちの忠誠
を疑わず、巨大な世を彼らの肩に負わせた。
 如何なる経験も、神の力にある人間の天性に対するこの信頼を打ち壊すことはできなかっ
た。このガリラヤの楽天主義者以上に、信仰を拒否する大きな理由を一体だれが持っている
というのだろうか?彼は破壊され道徳の退廃した時代に生きた。政府は両方とも暴君であり腐
敗していた。政府の高官たちはひねくれ、汚職に走っていた。ユダヤ教会は形式的で、いのち
がなく、偽善であった。その指導者たちは、そのほとんどが神の精神の働きには無感覚であっ
た。社会は吐き気を覚えるほど破壊されていた。人々はどこにおいても、男の誠実さ、女の貞
操を疑いながら育った。しかしイエスは人々を信じた。彼は、暗闇や破壊する氾濫する流れの
ように彼の上を過ぎて行く経験の牙の中で、これを信じたのである。彼の生涯全体は一篇の悲
劇であった。彼は疑われ、誤解され、嫌われた。彼はその行くところどこにおいても、うそつき
どもに囲まれていた。彼が語ることはなんであっても曲解されたし、彼が行ったことはなんでも
その意図を疑われた。そのような扱いは、そのような目に長く会い続けた人の心をひねくれさ
せがちである。イエスはその行くところすべてで誤った取り扱いを受けた。ポンテオ・ピラトの法
廷でイエスを苦しめた残虐な卑劣漢たちは、彼がその最初から受けていたものを行ったに過
ぎない。
 イエスの生涯は長く続いた十字架刑であった。人々は常に彼に茨を押しつけ、彼の脇腹を槍
で刺し、彼の手と足に釘を打ち付けたのであった。しかし彼は人間の天性に関する信頼を決し
て捨てなかった。彼は、彼らがイエスを殺そうと決断したことを見て取って、言った、「もしわたし
が上げられたなら、わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せます。」彼は、人間の天性
に罪である残酷で悪魔的なことが何であっても、結局その心の奥底に赦しと愛があると感じ
た。イエスの敵たちは、もっともたちが悪く、もっとも破廉恥で、無実の人々を殺すために追跡
して追い回す残虐な人々の群れであった。しかし彼らは、人間の心にある神の似姿に対するイ
エスの信頼を、打ち破ることは決してできなかった。
 イエスの敵たちだけでなく彼の友たちも、彼の言いようのない苦悩の原因となった。イエス自
身の弟子たち、彼が信頼している友たちのもっとも身近な仲間たちの中で、イエスのすべての
信頼とすべての善い業に裏切りを返したひとりの人物がいた。彼は、イエスの死に同意してい
る人々の手にイエスを売り渡したのであった。そしてこの裏切り者は多くの裏切り者たちのやり
方で彼を裏切ったのではなく、悪魔も赤面しそうな方法でそれを行った。彼はキスをしてイエス
を裏切ったのである。地獄そのものも、口当たりを良くした裏切りに優って不快極まるものを造
り出すことはできない。しかし個々の人間がいかなることをなしたとしても、人はなお信頼に値
するものである。彼はわれに帰った時、こうであろう、「立って、父のもとに帰ろう。」イエスの信
仰は、私たちが知っている多くの人々の懐疑主義とは対照的であることで注目される。人生の
早い段階で不幸な経験をすることほど人間の天性に関する信頼をぐらつかせるものはない。
若者は希望に満ち、信頼に満ちて人生を出発するが、世間では評判のよい人々、高所に立っ
ている人々の手に陥り、欺き酷評されて、おそらく残る生涯を懐疑とひねくれた心で過ごすこと
になるだろう。若い婦人が全ての人々を信頼する心を持って人生を始める。彼女は、男あるい
は女によって欺かれ裏切られて、時が癒すことのできない傷を負うのである。どの男女の社会
にも、世の中を不愉快にさせ、誰に対しても疑い深く、信頼できる人が一人もいないと思いこん
でいる人々がいる。それらの皮肉屋は皆イエスのところに来て彼から人間の天性はどこにお
いても大いに期待できることを学ぶべきである。彼は浅薄で、くだらない、意志薄弱な心を見る
が、同様にその可能性をも見る。しかし同様に彼は、神の霊がそれを開花させることのできる
徳と恩寵の芥子種のような小さな芽を見るのである。私たちは人々を彼らの能力によって推し
量り、彼らの可能性にはよらない。現在の彼らによって推し量り、後に達するであろう彼らを考
えない。イエスの目は未来を見通したが故に、彼は、人生に敗れてしまって廃墟の中に立って
いる周囲の人々にいった、「元気でありなさい。」
 この不屈の楽天主義者はあなたがたを信頼している。あなたがたは自分自身になんの希望
ももてない。だが彼は希望をもっている。あなた方は自分の弱さ、みすぼらしさ、いやらしさを
見ている。イエスはより深くあなた方を見、その深く見ることのなかにあなたがたに対する希望
を持つのである。彼は神があなたがたにおかれた可能性を見るのである。彼は、あなたがた
がわれに帰るとき、何ができるか知っている。彼はより深く、同様にあなたがたが神に来るとき
を見ている。あなたがたは無限の父の忍耐と憐れみに十分な見当がつかない。彼はそれが分
かっている。あなたがたは無限の愛が何を遂行できるか知らない。彼は知っている。あなたが
たの罪が、あなたがたの信仰を失わせる。彼はそうではない。あなたがたは千回も失敗したが
故に、あなたがたはもはや何もトライできるものはないと考えた。彼は言う、「また試してごら
ん!」もしもあなた方が彼に自分を委ねるなら、彼はあなたがたを楽天主義者にすることであ
ろう!



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