第十二章 イエスの兄弟愛

 「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。」 ・・・ マタイ 5:24

 私たちはイエスを彼と同時代の人々がみた通りに見ようと努め、もしできることなら彼が彼に
会った人々を引きつけた魅力の秘密を理解したいと願っている。そしてもし可能であるならキリ
スト教を19世紀間保ち続けた、人々をわくわくさせる彼の不思議の中心を見抜きたいのであ
る。私たちは既に彼の喜びと力が神に対する絶対的な信頼によることを発見した。そして今私
はあなたがたと一緒に私にはその名を見つけることが困難なもう一つの特色を考察しようとし
ている。それをイエスの愛というと、「愛」という語が非常に曖昧で誤解を招く可能性が大きいこ
とを指摘しておかなければならない。イエスの奉仕というとそれはむしろ冷たく長い期間に切れ
切れに引き裂かれてしまっている事実を述べなければならない。イエスの憐れみというと、憐
れみは見下ろす方向にある愛であって、真理の全体を意味させることはできない。イエスの人
間性と呼ぶと、それは漠然としていて定義が不明確な、出来事を生き生きと語ることができな
い語である。イエスの親切というとその語は充分な力を持っていない。恐らく「兄弟愛」という語
を用いる以上によくはできないであろう。というのは、この語は二つの要素を含んでおり、両方
とも人の王イエスの姿がどういうものか理解する上に必須のものであるからである。
 兄弟愛は親愛の意味だけでなく、助けを与えることを意味している。関係についての内容と
充分な助けを意味し、両方とも今回あなたがたに注目してもらおうとしている性質がひとつの構
成として混ぜ合わされている。このイエスの特徴が彼の当時の人々に与えた強い印象に基づ
いていることは、彼の友人たちが語ったことのみでなく、彼の敵たちから引き出された非難と嘲
笑によっても証明されている。律法学者とパリサイ人たちの共通したあざけりは、彼は取税人
罪人の友である、であった。そして彼が十字架に架けられ死につつあったとき、ユダヤ教会の
指導者たちは彼の周りに集まり、あざけって言った、「彼は他人を救った。しかし自分自身は救
えない。」この二つの非難は両方ともこの世の書き物のなかに見いだされる最も悪魔的なもの
と同じであるが、彼らはその中に彼の当時の人々がこのガリラヤの人に如何なる印象を抱い
たかを決定的に示していることは、私たちにとって価値あることである。それは彼の生涯すべ
てを通じて彼が実践したことが人を助けることであったことを示している。彼は社会の最も身分
の低い人々、底辺の人々にさえ友であり、兄弟のようであった。
それこそが彼の当時のれっきとした多くの人々にとっては醜聞であり彼を嫌悪させた彼の特徴
であった。同じ特徴が彼の最愛の友の一人によって書かれた有名な句に示されている。「彼は
行って善い業を行った。」ある人について書かれた讃辞でこれ以上に素晴らしいものがあるだ
ろうか?ひとりの人の経歴にどのようなバラの花輪をもってもっと愛らしく飾ることができよう
か?これらの三つのことば・・・「取税人罪人の友。」「彼は他人を救った。彼は自分を救えな
い。」「彼は行って善い業をおこなった。」・・・の中に、私たちはイエスが兄弟愛の心の持ち主で
あったことについての雄弁な証拠を得ている。
 彼は取税人罪人の友であるという、この非難を考察しよう。そしてそれが意味していることを
見いだそう。「取税人」という語は私たちには何の意味も持たない、というのは私たちの間に
は、パレスチナの取税人に対応する階級の人々がいないからである。彼らは、ローマ政府の
為に税金を集める、その国の税金取り立て人であった。彼らは毎年の集金の一部がその手に
落ちる大富豪たちの雇い人であって、強要や何らかの不正な手段によって、かなり多くのもの
を彼ら自身のものとしていた。敬虔なヘブル人たちにとってこれらの人々は彼らの国の裏切り
者であって、彼らが行くところどこにおいても憎悪、嫌悪、非難の対象となった。彼らのお金は
汚れたお金であって、会堂には受け入れられなかった。彼らの誓いは完全に価値のないもの
とされ、彼らは如何なる法廷に置いても証言を許されなかった。誰かが取税人に対する誓いの
もとに何かをすることを約束した場合、彼はその誓いに縛られなかった。彼らは非難とのろい
のさらし台に乗せられていて、凡ての通行人から嘲笑の石が投げられた。彼らは人間の形をし
た野獣のように見られていた。彼らは追放されたものたち、社会の落伍者たちであって、街で
詛われる宿無しの無頼漢たちよりも悪いものとされた。まともな人は誰一人彼らと行動をともに
せず、宗教指導者たちで彼らに興味をいだくものはいなかった。彼らはひとえに社会のゴミ、
滓でしかなかった。
 しかしイエスは彼ら、取税人にさえ友となった。彼らと話をしたのみならず彼らと食事を共にし
た。彼らの家に行き彼らと共にテーブルについた・・・それは大胆さの頂点であった。堕落した
人間にお金を投げ与えることは、檻の中にいる熊ににんじんを投げ与えることと同じである
が、彼らと食事を共にするということはそれとは全く別のことであった。悪い人々と話をすること
は、彼らによい忠告をすることと同一事であるが、彼らと仲間になることは全く別のことである。
ルーズベルト大統領がホワイトハウスで黒人たちと同席した時、南部の人々は怒って彼を非難
したが、彼が街の黒人たちと長い時間話をしてもそれを彼の欠点と見る人はいない。しかしこ
の人イエスは、取税人たちと共に座り、食し、彼の当時あるいはその世代ではそれを越えよう
とする人が一人もいない溝を越えたのである。これをなしたことにより彼はその評判を落とした
のであった。使徒たちのことばによれば、彼は世評を気にせず、名声を求めなかった。そして
それらを細切れに引き裂き投げ捨てた。それはすべて自分が兄弟愛の人であることを心に決
めていたからであった。彼らはそのように卑しい人々であったにも拘わらず、イエスは彼らの中
に自分の友を認めていた。彼らはイエスに属し、イエスは彼らに属した。彼らは人間であり、偉
大な神の家の子供たちであった。そしてそれ故彼らがなしたすべてのこと、彼らが如何なるも
のたちであるかに拘わらず、イエスは彼らを兄弟として扱った。この行為がイエスの時代の
人々に非常に深い印象を与えたのみならず、同様の印象をそれ以降の全ての世代にわたっ
て与えた。しかし私たちが忘れてはならない私たちの目に隠されていた事実は、・・・イエスはす
べての人の友であったことである。
  キリスト教はしばしば主として社会の底辺の、貧しい、病んでいる、堕落した人々に関心をい
だく宗教であると思われてきた。多くの人々が常にイエスを貧しい人々、病む人々、悪人たち
の友であると考え、彼を富める人々、善良な人々の兄弟であるとは決して思わなかった。イエ
スが善い人々に対して悪い人々に対するのと同様に、富める人々に対して貧しい人々と同様
に、著名な人々に対しても非難されている人々に対すると同様に、兄弟愛を持たれたことを決
して忘れるべきではない。・・・彼は凡ての人々の友であったのである。実例を挙げるなら、エリ
コのある富める人物が、通り過ぎるその預言者を見ようと木に登った。イエスは彼に、直ぐ降り
てきなさい、わたしはあなたと一緒に食事をしたいから、と言った。彼の生涯の終わりが近づい
たある機会に、彼の友たちの一人の家で食事の席に座っているとき、その家の一人が500ド
ルの値がする(訳者註:今の日本の貨幣に換算すると100万円を下らない価格であったと推
測される)香油を彼の足と頭に注いだことは、彼らがどうみても貧しい家庭ではないことを私た
ちに対して証明している。もし新約聖書の中に、富める人々よりも貧しい人々について多く語ら
れているなら、それはとりもなおさずイエスは富める人々に優って貧しい人々に近づくことがで
きたことを意味している。富める人々はいつも近づきにくい。ここニューヨークで、あなたがたは
どこかの貧しい人々の家には入っていくことができるが、富める人々の家からは閉め出されて
いる。富んでいる人々は常に障壁により、召使いの護衛によって、自分の周りを囲んでいる。
そのため私たちはパレスチナにおいてこのガリラヤの人が、貧しい人に多く接することが必要
であったことは驚くに値しない。
しかし、彼が井戸端で貧しい女に対したのとまったく同じように富めるニコデモに対しても親しく
あったこと、彼がエルサレムの貧しいこじきにしたのと全く同様に、富めるザアカイに親しくあっ
たことを忘れてはならない。そして彼は当時の有力な人々とも親密な関心を持つことに不足す
ることはなかった。もしも新約聖書が、私たちに彼がうち捨てられた底辺の人々に、より多く関
心を抱いたという印象を与えるとしたら、それは彼の生涯の物語を書いた人々に、彼の行為の
姿が他の人とその点で非常に異なっているという印象を与えたからである。彼のすべての業の
うち大変大きい部分が、有力な人々、善い人々、当時の指導的立場の人々に対してなされ
た。パレスチナの敬虔なヘブル人たちは、伝統で手足を縛られていた。彼らはエジプトのミイラ
が香油の布でぐるぐる巻きにされているように律法で縛られていたが、イエスは自分をそれら
から自由な位置に置いた。ひもは固く結ばれていたのでイエスはその結び目を解こうとした。し
かし彼の人々を解放しようとした努力は敵意を沸き立たせ、嫌悪の情を目覚めさせた。それが
彼の死を早めさせることとなった。人々が彼を捕らえ、
「あいつを十字架に架けろ!」と叫んだ原因は、彼がその結び目を解こうとした努力にあった。
 私たちはイエスの兄弟愛に関する2、3の描写に注目しよう。バプテスマのヨハネがヨルダン
川で洗礼を授けていた時、イエスは洗礼を受けるためにガリラヤからやってきた。ヨハネはイ
エスが近づいてくるのを見た時、叫びだした。「いや、とんでもありません。私はあなたに洗礼を
授けることはできません。あなたはあまりにも善いお方ですから。私の方があなたから洗礼を
受けるべき理由があります。この洗礼は罪人のためなのですから。ですから、私はあなたに洗
礼を授けることは致しません。」しかしイエスは彼のことばを聞き入れなかった。彼は洗礼を受
けることを主張した。彼は彼の兄弟たちと同じに自分を位置づけたのである。彼は言った、「私
は皆と同じ一人の人として数えられたいのだ。」と。彼が善いか悪いかの問題ではなく、彼が兄
弟としての存在であるかどうかの問題であった。彼は彼の国に善いことを約束するいかなる運
動からも遠ざかっていることを拒否した。彼の仲間の市民が必要とする儀式と同じものを彼も
受けた。彼は彼の使命のはじめから兄弟たちのなかに身を置いた。病人たちを取り扱ったこと
に優って、彼の兄弟愛を明確に示すものはどこにもない。彼が病める人々を見ると、彼の心は
その人を助けずに通り過ぎることを許さなかった。痛みはいかなる形態であっても彼に訴えか
けたし、みじめさは彼の心から慈しみを引き出した。
記録されている奇跡の大部分は癒しに関する奇跡である。彼は耳が聞こえない人々、口をき
けない人々、盲目である人々を、彼らを助けるために彼の力を発揮することなく見過ごしには
できなかった。新約聖書中、この兄弟愛についてヨハネが記したベテスダでの病める人の物語
に優る描写はない。そこにあの大きな町でひとりの友もなく、どうすることもできないまま、38
年間横たわっていたひとりの病人がいた。病を癒す神秘な力に近づくため彼を持ち上げて運
んでくれる人が必要であったが、彼を持ち上げるため手を貸してくれるものは誰ひとりいなかっ
た。1900年前の世界で、非人間的なことに対するそのように強い光が投げかけられること
は、聖書の中の事件以外には存在しない。私たちはいたるところでイエスの精神が働いている
時代に生きている。どこにおいてもさしのべる手があり、どこにおいても人々の心は助けのな
い人、病むひとに同情して心うたれる。東洋を旅した旅行者たちは、私たち西洋の人々が人間
の悲哀と悲惨について東洋人と何の差もない概念を持っているという。イエスは、兄弟愛の存
在である故に、彼につづく世の人々の生涯に関する模範の実例となった。彼の名が運ばれた
いずこの地においても、人々のこころは優しくなり彼らの手は助けの手をのばすことにより熱
心になった。
 イエスの兄弟愛は彼の説教にも同様に明らかにされている。彼は錯乱していること、困った
事態にあること、惨めなことに苦痛を受けている人々を見ていられなかった。神の造られた世
界に生きている彼らに、神について何も語らずに彼らが審きの日を迎えることを、彼は見過ご
しにはできなかった。彼らが羊飼いのいない羊のように迷い、遠く散らされていくのを見たとき
はいつでも、彼は彼らに対する憐れみの心に動かされた。ガリラヤの田舎の人々が疲れた顔
をしているのを見たとき、彼は叫びだした。「すべて労し、重荷を持っている人は私のところに
きなさい。私があなたがたを休ませます。」「ああ、エルサレム!エルサレム!」ということばに
は、なんというすすり泣きが込められていることであろう!その語の中には兄弟愛のうめきが
ある。彼自身が兄弟愛の人であったのみでなく、彼の兄弟愛は正に宗教の必須の要件であ
る。兄弟愛なしには、神を喜ばせることのできる宗教は存在しない。昔の律法に言われる、殺
してはならない、と。しかし、イエスはその律法の要求を遙かに超えるところにいった・・・兄弟を
訴えることも同様に悪であって、裁きをもたらす、と。突き刺し、傷つける形容詞を用い、侮辱と
非難に満ちた意味の形容語句を投じ、相手を貶める方法で語ること・・・それは邪悪で、厳しい
報いを受けることになる、と。寓話中のもっとも顕著なものは、金持ちとラザロのたとえ話であ
る。ある富める人が毎日贅沢に暮らしていた。一方彼の門前に、その体はできもので覆われ、
憩いをもたらしてくれる友が一人もいない貧しい病気の乞食がいた。ただ通りをうろついている
犬が彼の忌まわしいおできをなめていた。イエスはこの世で起きることと次の世で起きることと
を話している。あなたがたは彼の怒りの心情を感じ取ることができるであろう。あなたがたは彼
が、「そのような薄情な行為が、宇宙の神の怒りにあわないと思うか?」と問うている質問をきく
ことができる。この富める人がやがて苦しみのなかで目を上げることになったのは、富み、美し
い衣服を着、豪奢な暮らしを毎日営んでいたからではない。アブラハムも同様に富み、毎日豊
かに暮らしていた。しかしアブラハムは天国に行った。そのわけは彼が兄弟愛の心を持ってい
たからであった。この金持ちは彼の心が優しくなく兄弟の必要に応える同情心を持ち合わせて
いなかったから地獄にいった。
 ではパレスチナの人々の兄弟愛はどんなものであったろうか?イエスのそれのようなもので
はなかった。イエスは彼を誤解した人々に対しても同様に兄弟愛の人であった。彼らはイエス
を誤って理解し、彼に悪意をもった。彼らはイエスを殺そうと計画した。しかし彼らはイエスの兄
弟愛を失わせることはできなかった。彼らがみな醜く執念深かったにもかかわらず、イエスは
彼ができる助けを与えるために彼らのところに行った。そして彼らがイエスを殺すたくらみをし
ている中で、彼は助けを与えるために勇敢に進んでいった。「もしもわたしのいのちで彼らを助
けることができないなら、彼らをわたしの死によって助けよう。死ぬことによってわたしが彼らに
善を望んだことを悟らせよう。わたしは、もし上げられたなら、すべての人々をわたしのもとに
ひきよせる。彼らが今はわたしを理解できないけれども、十字架に架けられているとき理解す
るであろう。彼らがわたしの死の息によって彼らのために祈るのを聞くとき、彼らはわたしが彼
らの真の兄弟であることを悟るであろう。」



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