第十一章 イエスの神への信頼

 「彼は神に信頼した。」 ・・・ マタイ 27:43

 私たちはイエスをありのまま見ようと努めている。福音書の中に、私たちのために非常にい
きいきと彼のイメージが描かれているのに、私たちが彼をもっとよく知らないことは驚きであ
る。物事をよく知っていることが、その心を無感覚にさせる働きをする。私たちは子供の頃から
イエスについて非常に多くを聞いてきたし、非常に多くの教師、説教者が彼について語るのを
聞いた。それが心を頑なにさせ彼に関する印象を拒否させた。私たちの多くが誤った方法で聖
書を学んできた。私たちは聖書を切り抜き、つぎはぎし、ばらばらの断片として学んできたので
あって、イエスを人々の間にあるひとりの人として考え、離ればなれになった段落をつなぎ合わ
せ、総合的に見ることをしない。それゆえ恐らく、私たちは彼の愛の性格の姿一つだけを捉え
る。それはあたかも、ある輝く特異な星をみつめてそれに目を固定し、他の多くの星座の広が
りとその運行を見失っているとか、私たちは小石ひとつを取り上げ、海岸の広大な曲がりや海
の波や潮流を取り上げ損なっているが如くである。私たちのこれらの学びすべてに共通の目
的は、当時の人々の見た通りに彼を見ることである。
 私たちは彼にある力と喜びに関する特徴を既に見いだした。そして今私たちはもう少し深く掘
り下げて、それらの力と喜びの流れがどこから流れ出ることができるのか見いだすことにしよ
う。この人がすべての状況のなかでそのように支配的に振る舞えたのはどこから生じるのか、
そして彼のそのように多くの脅威の真ん中にあって喜びに満ちていることはなぜ生じたのであ
ろうか?その質問に対する答えは、新約聖書の全ページに渡って書かれている。
彼の力と喜びは彼の神への信頼の堅さから来ているのである。もしあなた方がイエスの品性
のもっとも深く根本的なものは何かと私に問われるなら、私はこう答えるであろう。それは彼の
神への信頼であると。このことが彼のアルファでありオメガであること、最初から最後までであ
ることを感じることなく誰かが新約聖書を読むことができるとは私には信じられない。それは彼
の上の天であり彼の足下の地であり、空気であり、日々食するパンであり、彼に浸透している
精神であり、彼のすべての会話に走る音楽であり、彼の生涯の霊感であった。恐らく全聖書を
通じて彼の最も執念深い敵の唇からでた言葉以上にこの点をよりよく証明するものはあるま
い。私たちは既にこれらのイエスの敵たちから価値ある証拠を発見しているが、この点につい
ても彼らは私たちを失望させることはない。イエスが死につつあったとき、多くの人々があざけ
りと悪意のことばを吐きながら、彼を嘲笑し彼らの首を振った。これらの人々の間で、奇妙なこ
とが言われた、そこには学者であり指導者であるサンヒドリンの議員たちがいたが、・・・彼らは
皆彼をあざ笑い軽蔑して言った、「彼は神に信頼した!」と。かつて地獄の口から吐き出された
のろいのことばも彼らの嘲笑ほどにはひどくはなかった。人間というものが死につつあるひとり
の人に対してあざけるほど残虐になれるとは信じがたいことである。しかしそれはパレスチナ
の宗教指導者たちがガリラヤの預言者が死んでいく時になしたことである。暗く恐ろしいことば
がイエスの教えと行いに炎の光を投げかけている。彼の行為のすべてが、人々に、彼は神に
信頼したとの印象を与えたのであった。
 もしあなたがたがこの信頼の実例を私に求めるなら、わたくしはそれがほとんどないからで
はなくあまりにもたくさんあるので悩まされる。誰でも福音書の望む箇所に浸るなら、イエスの
神への信頼の証拠を見いだすであろう。まだ一少年であった時、彼は母にこう言った。「私が
父の家にいなければならないことをご存じなかったのですか?」十字架上での彼の最後のこと
ばは「父よ、あなたの手に私の魂をお委ねします。」であった。最初の時点から最後の時点ま
で彼の信頼の音楽は決して途切れることがなかった。彼はどこにいても常に祈りの人であっ
た。彼の生涯の危機の時には常に彼が祈っていることを私たちは見いだす。彼の受洗と変貌
の時に、ゲッセマネの園で、十字架上で、彼はその魂を神に注ぎだした。すべての重要な行動
の前に、すべての困難な状況下で、働きのすべての複雑な段階で、彼が祈っていることを私た
ちは見いだす。人が祈ることはパレスチナでは当たり前のことであった。しかし、この人のよう
に単純さと熱心さと大胆な信頼を持って祈った人はいなかった。彼の周りに集まった人々は畏
敬の念に打たれて言った。「主よ。私たちに祈ることを教えて下さい。」ヘブルの子供たちはそ
の極めて幼少の時から祈ることを教えられる。祈りはヘブルの敬虔の姿と切り離すことができ
なかった。しかし極若いときから祈った人々はこの人の祈りを聞いた時じぶんたちが全く祈っ
たことがなかったように感じた。彼が神を呼ぶために用いたことばは父であった。長い歳月の
間には、ほんの時折ここかしこでこのような親しみのある名を神に当てはめることを試みた魂
があったが、ナザレのイエスは常に神を父と考え、そう呼んだ。彼は彼自身の祈りのなかで神
を父と名指し、他の人々に同じようにこの名を使うようにといった。善い父への善と憐れみへの
信頼は彼自身の最も強く満ち足りた喜びであった。神への信頼に他の人々を導くことは彼の
常に変わることのない志であり熱望であった。 イエスはこの点を私たちにどれだけ多く教えた
ことか。神を信じることは容易なことだとしばしば思われている。事実は、ある時点、ある状況
下では、神を信じることほど難しいものはないのである。事実、誰かが神を信じていると口で言
うことは易しい。しかし正義が死にたえ愛が消え失せたように思われる時そうすることは全く困
難である。善い父への信頼を困難にする出来事を見いだすことのない自然を誰が探求するの
か?自然は残酷に見えないだろうか?自然は心をもっていないかのように見えないのか?火
が焼き、水が溺れさせ、無情に火山が町を覆わないだろうか?自然は人間の望みとか幸福と
は全く無関係に巨大な活動をすることがないだろうか?自然と向き合ってこれを見つめた偉大
な思想家たちは、すべて自然の無慈悲さと関心のなさに慄然とした。ナザレのイエスは自然の
中に新鮮な神の愛の証拠を見いだした。他の人々は太陽が善い人々の上にも悪い人々の上
にも注がれることに気付かないので、神はご存じない・・神は気遣いをされないと結論するので
ある。それに反して同じ現象を見ながらイエスはその中に善い父の大きな心の鮮やかな証拠
を見のである。雨は神に不敬な人の畑にも神に仕える人の畑にも降る。その理由は、神が人
を品性によって区別するのではなく、神の憐れみがすべての子らを覆うためであって、神はそ
のように善いお方だからである。地上の父母は従わない息子も従順な兄弟たち姉妹たちと同
じに食卓に座らせるのと同様に、よい神は善い者にも悪い者にも怒りを見せることを望まれ
ず、すべての人の心が服従することを期待しているのである。イエスにとって自然は偉大な証
拠であり、隠された光であり、永遠の憐れみの広さを絶えまなく証し続けている。
 しかしもし自然が冷淡かつ残酷に見えるとしたら、私たちは歴史を何と言うべきだろうか?・・
人の生活の悲劇が演じられてきた舞台である。何と不可解なものの寄せ集めであることか!
なんという悲哀の大集合であることか!どの世紀においても苦悩にうめき、すべての年代で血
を滴らせている。無実の人が難儀に遭うことを見、抑圧された人々が叫ぶのを聞き、潔くよい
人々が殺されているのを目撃してこう自分に問わずにいられるだろうか。神はご存じだろう
か?神は心にとめておられるだろうか?正しい者がいつまでも踏みつけにされ続けるのだろう
か?・・歴史を読み取る人々にはそのように見える。悪が徳に勝利し、不正直が正直を踏みつ
けにする。不義が正義の上に君臨し、嫌悪が愛に戦いを挑みこれを打ち負かす。これは一度
限りの事ではなく、一万回も起きるのである。ある人々は暗く恐ろしい歴史を読んで神への信
仰を放棄した。イエスは同じ光景を見て異なる解釈をした。彼は善い人々がやってきて世に仕
えても、拒絶され反発されるのみであると。彼らのあるものは石打ちにされ、他のものは鞭で
打たれ、又別のものは殺される。彼らの死骸は厚い層に積み上げられる。しかしイエスにとっ
てこれは神の無関心の証拠ではない。これは神が長く忍耐していることの証しなのである。神
はただひとりの滅びることをも望まず、迷い罪にみちた人に天のメッセージを宣言する預言者
たちと使徒たち、英雄たちと聖人たちを世に送って何世紀も待っているのである。しかしもし自
然の過程と歴史の流れがだれかの神への信頼との戦いをもたらすなら、彼ら自身の個人的な
経験としばしば一致しない矛盾は一層恐ろしいことである。長年神に信頼してきた多くの人々
が、悪い出来事が彼にやって来るとき、彼の信仰がその衝撃に十分耐えられるだけ強くなかっ
たことを発見するのである。非常に善く強い人々は不幸な出来事に遭遇したとき、それこそが
彼らの信仰を利するものと考える。一方彼らはびっくり仰天しぼうっとして、しばしばどう考える
べきかわからなくなる。ヨブもそうであった。
彼の神に対する信仰は完全であると彼は思っていた。しかし彼の子供たちが取り去られ彼の
富が掃き捨てられ、彼の健康が消え失せたとき、彼は惨めさの中で地に倒れ伏し神に苦痛を
訴えたが、右にも左にも後ろにも前にも神を見いだすことはできなかった。多くのものごとが神
への信頼を吸い取ってしまうように重なり合っている。失望が人のもっとも期待している夢を無
に帰し、彼の中心的な望みを失わせるであろう。失望が次々と彼の所に来、彼が打ち負かさ
れ望み無い状態に沈み、彼の火が消えてしまうまで続く。迫害がある人の神への信仰を破壊
し、人間の残虐さが心の本質を腐敗させる。人の誤解と誤った表現、敵対心と不信仰、軽蔑と
非難は神が世を支配していることを信じることをほとんど不可能にする。
 他の人々は失敗に打ち負かされる。彼らにとって成功ほど快いものはない。成功を勝ち取る
ために彼らは自分の最も良い年代と力をそのために費やす。然し彼らができることすべてを為
したにも拘わらず成功はやってこないのである。そしてそれをすることをやめた時、彼らは打ち
負かされたことを告白するのである。敗北の苦さの中で彼らは叫び出す。「神はどこにいるの
か?」と。ナザレのイエスは人間が経験しうるすべての暗い経験をした。彼は自分の頭脳と心
のすべての精力をただ一つのことを為すことに費やした。彼は彼の熱心を満たす夢を持ってい
たし、悲嘆と悲しみをこの世から追放することを確かにするメッセージを伝えた。彼はそれを宣
言するためにエルサレムに行ったが・・そこの戸は彼の面前で閉じられた。彼はそれをガリラ
ヤの会堂で宣言されたが、そこの人々はそれを受け取らなかった。そこで彼は偉大な町の通
り角でそれを説教されたが、群衆は六月の堤の雪のように溶け去った。最後はたったの十二
人の人々が彼の傍らにいた。そして彼らの心は非常に動揺していたので彼はこれらの彼が情
熱と献身を持って彼らの魂のうちに彼の生涯を注いだ十二人の男たちに尋ねた。「あなた方も
去ろうとしているのか?」しかし彼らの中の最も大胆であった人物が臆病となり、彼らの中でも
っとも信頼していた一人が裏切り者となり、イエスの生涯の危機の時に彼を見捨てて逃げ去っ
た。
 彼の失望にも拘わらず、彼の神への信頼は破られなかった。嵐の真ん中にあって彼のたい
まつは燃え続け、彼は叫んだ、「勇敢でありなさい。私は既に世に勝っています」と。彼の後に
も先にも彼ほど責められた人はいなかった。彼は悪く言われ、非難され、忌み嫌われた。ある
人々は、彼は狂人であるといい、他の人々は、彼は悪霊つきであると言った。彼は背信者、冒
涜者であると非難された・・・然し、彼のこころは優しさを保った。恩を忘れ嫌ってやじりながら、
人々が彼を打ち、彼を非難しののしったが、彼はこういった。「父が私に飲むようにと与えた杯
を、私が飲まないでいられるだろうか?」そしてついに彼は見捨てられたのである。彼がその
力の全てを捧げたことをなすことに力尽きた・・・それは彼が不動の祈りを捧げてきたものであ
った。私たちはしばしばこのこと・・・イエスの地上生涯が失われたものとなった・・・をじっくり十
分に考えることができない。私たちは彼の死後に起きたことがらをじっくり考え、私たちが見て
いる彼の成功を考えている。しかし、当時においては彼の死は恐ろしい心の張り裂けるような
失敗であったことを忘れてはならない。不正は公正よりも強く、不義は正義より力があり、嫌悪
が愛よりも強かった。彼は世に美しい真理への同意を導入しようと試みたが、世は彼をはねつ
けた。彼は死の時にも神を見、言った。「私の意志ではなくあなたのみこころがなりますよう
に。」敗北それ自体が、彼を失望させたり引き返させたりできなかった。彼は言ったもし必要で
あるなら、私は私を聖別します、それは私の血に渇いている人々の足下に踏みつけにされるこ
とですが、もし永遠の父のご意志ならば、私は喜んで従います。と。
 この人のような人物は決していなかった。他の偉大で力のある人々も生まれ働いたが、ナザ
レのイエスのようにではなかった。バプテスマのヨハネは力があった。しかし風が吹いた時彼
は芦のように折れた。シモン・ペテロは巨人であったが、嵐が吹きすさぶと彼は沈み始めた。し
かしナザレのイエスは、天をも消し去り地を揺り動かす激しい嵐のまんなかに立って、言った。
「私の心ではなく、あなたのみこころがなされますように。」歴史をひもといて偉大な人物を見な
さい。いかに彼らが風や嵐に揺り動かされ投げ飛ばされたかを。しかし、このガリラヤの人は
彼ら全てを超えて、あたかも荘厳な山のように、その平和な頭は青い空にその輪郭が描かれ
た。







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