第十章 イエスの広さ

 「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」 ・・・マルコ 16:15

 ある意味でナザレのイエスには広さに欠けるところがあった。彼は明らかに世界を見ることを
望まなかったし、彼の生涯を小さなパレスチナにおいて費やして満足していた。彼は狭い小道
を歩み、幾千の彼の同国人たちの尊敬と栄誉を勝ち取った人々とその方法をよしとすることを
拒んだ。しかし彼の狭さにはある目的があり、それに対する理由があった。彼の狭さは彼の広
さが生み出したものであった。彼は狭い道を歩んだが彼の心は広大な帝国の夢を携えてい
た。一箇所に立ち、同じ人々の心の琴線を繰り返し打つことによって、彼は世に満ちる音楽を
奏ではじめたのであった。彼は自分でともした小さな火を大切に扱い、多くの土地の霊的な風
土が変わるほど十分に熱くした。選ばれた弟子たちの小さな仲間に彼の精神を満たすことに
よって、彼は失われた民族を肩に載せて神のもとに運ぶことができるまでにした。ただひとつ
の道を変わらずに歩み続けることによって、彼は誰もがそれを見ることができるほどにその道
を輝かせた。誤った思想を投げ捨てることによってまた敵対する人々に対抗することによって
彼は真理の探究者のために、そして神の兵士たちにそれぞれの世代に、善い戦いを戦い、栄
冠を勝ち取ることを容易にした。ほんの二三のことに関する真理に精力を傾けることによって、
彼は多くの都市に主権の座を勝ち取った。そして自分を制限することによって、彼は非難され
るところのないものとし、終わることがない広い人間性の王国を打ち立てた。もしあなたがたが
新約聖書を学ぶなら、あなたがたはきっとこの人がはじめから全世界とあらゆる人種の人々
に目を向けていたことがわかるであろう。魂の世界にはなんと不思議なパラドックス(逆説)を
見いだすことであろう。もしあなたがたが広くありたいなら、狭くなりなさい。イエスの広さは計り
知れないものであるが故に、彼は狭かったのであった。
 イエスに彼の同国人との最初の衝突をもたらしたものは、彼の思想と同情の広さであった。
一国民としてのユダヤ人は、狭量で頑迷であることで有名であった。彼らは世界を二つに分
け、彼らとそのほかの全ての人種との間に越えることのできない深淵を設けた。パレスチナの
内側の人々は、徹底して変えることのできない線引きで二つの階級に分割されていた。心は狭
く、感情は苦く頑なであった。サマリヤ人は詛われたものと見なされ、エルサレムへの道を行く
ガリラヤ人は彼らの足がサマリヤの土を踏むことによって汚れないようにと、ヨルダン川を渡っ
て迂回した。ユダヤ人は排他的で高慢かつ貴族的人種であった。常に他のすべての国民に優
るものとされたと考えて神に感謝していた。しかしイエスの精神は違っていた。彼のナザレでの
最初の説教で、彼はエリヤの時代に神は約束の地の外のやもめに特別な配慮と名誉を与え、
エリシャの時イスラエルに多くのらい病人がいたが、異邦人のらい病人シリア人ナアマンだけ
が癒された事実を取り上げて注意を喚起した。それはすべて彼らの聖書に書かれていること
であった。しかしナザレの善人たちは、それ以降のすべての善人たちと同様に、彼ら自身の聖
書に記されている多くのことがらに注意を払わなかった。そしてイエスがシドンのやもめとシリ
アの王を褒めた時、彼らの心は非常な怒りに燃え、その集会を解散し、説教者に暴行を加え
ようとしたのであった。彼らは彼を断崖の縁へと通じている狭い通りを引き立てて、その縁から
彼を突き落とそうとしたのであった。しかしイエスは彼らの極悪の意図を失敗に終わらせ、カペ
ナウムに逃れた。実にこれこそがイエスのこの世との戦いの始まりであった。人々の視野を広
げようとしたイエスの努力が最初の敵愾心を引き起こしたことは記憶に値する。心の狭いナザ
レの村人たちは、彼らを超える広い心に対して殺人の危機へとかき立てられた。イエスの発想
の広さはその絶えることのない新鮮さと全ての種類の人々と条件に対する適応性によって証
明されている。イエスの発想が、すべての国民とすべての世紀を十分にカバーするほど広いと
は、なんと驚くべきことであろう。人々の発想の多くは、時間の経過と共に廃れ消え去って行
く。政治的な思想は時の経過とともにその姿を変えるが、科学的な思想もまた同様である。ど
の世紀でもそれに先立つ世紀の政治的な教えに何の興味も持たない。そして過ぎ去った世代
の科学を受け入れる世代はない。しかしイエスの思想は非常に広く、全世界と全世紀をカバー
することができる。そして19世紀間を経てイエスの在世時に信じられ教えられていたすべての
ことは掃き捨てられたにもかかわらず、イエスの思想はいまだに生きており、まさにそのことば
は星のように長く生き続けることが定められているといえる。私たち20世紀の人々が、ナザレ
の集会に列する一人となり、およそ2000年前にユダヤ人たちに興味を与えた正にその思想
を聞くとはまことに不思議なことである。その思想は非常に広く、ナザレの預言者の聴衆のす
べての精神の必要と心の求めに応じることができる。誰かが自分の前に歴史を展開して見こ
とができるとしたら、その人は何百万人の数え切れない人々が、たった一人の教師の回りに集
まっているのを見ることであろう。そしてほかでもない、その教師はナザレの人々が殺そうとし
た人物である。その思想は、正に、すべての地域に存在した全ての人々、全ての種族と言語
をカバーできる広さである。
 そして彼の心もまた彼の頭脳同様に遙か彼方に届いていた。イエスの社会的な同情は、彼
の同国人にとっては驚きであり恥ずべきことであった。彼は全ての人を思いやることができた。
彼はまるで育ちのよい人々の礼儀作法に無知であるかのように見えた。彼の心は全ての種類
と条件の人々に向かって開かれていて、それは誰をも気にかけない強烈な方法で示された。
パレスチナには世論として追放された人々がいた。全ての正しい考えをする人々は彼らを軽蔑
した。彼らは通りの犬のように扱われた。彼らは感情をもっていたが、誰一人彼らに同情した
人はいなかった。すべて社会の門戸は彼らの面前でピシャッと閉ざされていた。これらの人々
は取税人として知られていた。イエスの心はこれらの人々にも注がれた。イエスは彼らと話し、
彼らと共に食事をした。それだけにとどまらず、彼は取税人の一人を彼の親密な友たちの内
輪のサークルに加えた。そして彼の名で出て行き、彼の名で説教することを許可した。すべて
のユダヤの都市で最も狭い町であり、何世紀も祭司の町であったエリコにおいてさえ、この偉
大な心の持ち主である預言者はその町で最も著名な取税人のひとりと宴会の席についた。こ
れはその国の上流の人々の驚愕であった。彼の心の広さをこのような行いによって示すだけ
でなく、彼は世界中の美術館に掛けられている絵を描いた。その色彩は永久に色あせず、如
何なる盗人もそれを壊すことはできないのである。その絵はこう呼ばれている「パリサイ人と取
税人」と。神の心はうぬぼれているパリサイ人よりも悔い改めた取税人に応えられることがそ
の絵の教訓である。  取税人よりも下位にある人々の群れがいた。それはサマリヤ人であっ
た。すべての人の手は彼らに対抗してあげられた。すべての心は彼らに対して火打ち石のよう
に固かった。イエスは彼らの友となった。彼は彼らに触れた。イエスはサマリヤの女に宗教の
指導をし、サマリヤ人のらい病人を癒した。イエスの心は広く、その体が腐りうち捨てられたサ
マリヤ人に応える余地があった。世の終わりまで全世界に彼の心の同情心の広さを示すこと
を決意したかのように、イエスは彼らが目で見、心に感じることのできる一つの絵を描いた。そ
の絵の名は「善きサマリヤ人」である。なんとこの人は、彼の同国人の伝統と習慣を打ち砕い
てしまったことであろうか!その地は心の狭い教師たちによって造られた隔ての壁と仲違いさ
せる障壁によってがんじがらめにされていたが、イエスがその地を歩いた後には、見よ、それ
らの障壁と壁は廃墟の山となった。彼の大きな愛の心はすべての規則と制限を打ち壊した。
彼の心には全ての人々のための余地があった。
 彼の愛の広さは人々が見た最も驚嘆したものであった。彼の愛は限りなかった。それは岸の
ない海であった。彼は従う人々が彼らの愛に境界を置くことを望まなかった。なぜならそれらの
境界はすべて彼の習慣とは相容れないものであり彼の精神とは異質であったからである。ペ
テロが自分に対して罪を犯した人を何回まで許したらよいか、彼が大部分の教師たちが2回と
言っていることに比べて奇怪なほど大きい数であると思って7回まででしょうかと尋ねたとき、イ
エスはこう答えた。「いかなる制限も設けてはいけません。愛の分野には境界など存在しない。
あなたがたは心の帝国を計算したりできない。数学と愛情とは別物である。」彼が愛について
語るときいつでも聞く人々を驚嘆させた。ある日彼はこう言った、「あなた方の敵を愛しなさい、
彼らを祝福し詛ってはいけません。あなた方を憎む人々によくしてやりなさい。そして、あなた
方に悪意を抱きあなた方を責める人々ために祈りなさい。」そのような広い愛をもつことはただ
神のみに期待できるものであることを示して、人々があっけにとられて立っていたとき、イエス
は、神は正しく生きることを願う人々の模範であり、人の変わらない目標は彼の生涯を神のス
タイルとなし、神を真似、神の善き心に限りなく到達することであると付け加えた。  これは単
なるすすめではない。それは単に説教されるだけでなく実践されなければならなかった。イエス
は赦しを教えた、なぜなら彼は赦す心の祝福を知っていたからである。彼自身常に赦した。彼
は悪意を持たず、仕返し、復讐をしなかった。ある人々は悪の悪さというものを見ず、心がそ
の悪さを感じないが故に赦す。イエスは悪の忌まわしさを見ていたし、ぶしつけな言葉の不愉
快さを知っていたし、罪の醜さを感じていた。彼の心は悪を怒ることに非常に敏感であった。し
かし罪を嫌う一方で罪人を愛した。そしてそれ故に死刑執行人たちが彼の手と足を十字架に
釘付けにしたとき、彼の唇に登ったことばは「赦す」「赦す」「赦す」だけであった。偉大なことば
には彼の心の血が含まれていた。
 この豊かな愛は彼の望みの無限の広さに起因している。 彼は全ての教師たちの中で最も望
みを持っていた。その生徒がいかに鈍くても問題とせず、イエスは彼がきっと学ぶであろうこと
を信じ続けていた。19世紀前のパレスチナでは、人々は皮肉屋で悲観的になっていた。彼ら
は人間性を信じることを失い、多くの人々が地獄以外に期待できないとの確信に陥っていた。
パレスチナの宗教の教師たちにとっては、ある人々はもはや救いがたいものであった。彼らは
失われたものであり「失われたもの」というレッテルが貼られた。すべての町々で、ある罪人た
ちは彼らを導く説教をしてはならないし、約束も提供してはならないものとされた。ユダヤ人の
教会はそのような人々すべてに背を向け、救われることのできる人々を制限した。しかしイエス
は、彼が愛であったが故に、望みをもった。彼の望みは彼の愛と同様に無限であった。彼は社
会から拒絶された人々を拒まなかった。彼は人間のくずとされた人々にも約束を見た。社会の
かすは不注意に捨て去られるべきではなかった。チャンスがないと思われた人々にもチャンス
があり、人々が滅びに定めた人にも望みがある。あなたがたは、誰かが何を言うか、あるいは
何を行うかよってさえ、その人の内にあるものを判断することはできない。人の内には、その人
が話したり行ったりすること以上のものがある。それ故イエスにとってはいわゆる失われた
人々と呼ばれた人々が失われていないことを示し、詛われたサマリヤの畑にさえ刈り入れの
余地があった。彼は真実さを持っていないと思われるような人々に対しても彼の最も熱心なす
すめをすることをためらうことはなかった。そして世の冷酷さが鉄のように彼を傷つけているさ
なかにも、彼はこう言った、「もし私が挙げられるなら、私は全ての人々を私のもとに引き寄せ
る。」と。そのように彼の人間に対する信頼には境界がなかったので、彼は彼の期待に制限を
設けなかった。彼の地上生涯のわずかな年数では世の贖いを完成することはできなかった
が、彼は団体を形成し、それを彼の精神の中に浸し、この団体を通じて神はその天にある彼
の王座から人々を贖うのである。このキリスト者の団体の形成は、新約聖書の中の最大ので
きごとのひとつである。人々の品性が豊かな教示をもって建てあげられる。もしあなたがたが
自分の死後に自分の理想を実現するための組織をつくるとしたなら、どのような種類の人々を
あなた方は選ぶであろうか?私は思うに、あなたがたはきっと自分自身のような人々、自分自
身の社会的なサークル、自分と同じタイプの心情の持ち主、自分と似た気質と性格の人々を
選ぶであろう。しかしそうすることによってあなたは無に帰する団体を獲得したことになるであ
ろう。
 イエスの方法に心をとめて見よ。イエスは全ての階級の全ての種類の人々を選んでいる。グ
ループのなかでは彼の仲間の誰かに似ている人物はいなかったし、彼らのうち誰一人イエス
に似てはいなかった。活発な人、ペテロがおり、不活発な人、トマスがいた。情熱家の熱心党
員シモンがいた。彼はパレスチナの最も過激な政治組織のメンバーであった。そして平凡でゆ
っくり歩むピリポがいた。良家の出で非難されるべき経歴のないヨハネがいた。彼の側には取
税人という不名誉な名を冠したマタイがいた。全ての気質の人々がここにおり、精神機能のす
べての組み合わせがあり、様々な階級と社会の階層が示されている。幅広い仕事をするには
幅広い道具を使うであろう。イエスの手によって残されたキリスト教会は、すべての門戸を開く
ことができるタイプの構成メンバーを擁することとなった。イエスの心の広さ無くしては、彼の名
を冠し彼の業を行うための団体の形成に関する彼の選択のやり方以上にはっとさせられるほ
ど明確なものは、決して生まれてこなかった。それは偉大な事業であって、かつて人の心に入
ったもっとも広大なものであった。
 彼の目は常に地の果てまでも見ていた。ユダヤ教会の規則を強いる狭量な人々の狭さは、
彼を悩ませた。イエスはいった。「多くの人々が、東から西から北から南からやってきて、神の
王国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに座るであろう。 初期の段階では彼は弟子たちに、
その働きに彼ら自身の民という制限を課し、外には行かせなかったが、この働きの範囲の制
限は単に教育上のことであって、弟子たちの力が増大すると過ぎゆくものであった。人々はユ
ダヤの問題を処理する十分な力を持つまではエルサレムにいるべきであり、彼らがサマリヤと
いう条件下のもっと困難な問題を処理できるようになるまでユダヤにとどまるべきであり、世界
中のいかなる所を旅することにも耐えることのできる力を持つまで、サマリヤで働くべきであっ
た。
 教師は生徒に遙か先の年に関する彼の教育計画を、初期の段階では伝えはしない。イエス
は彼の使徒たちに彼らが受けるバプテスマの日のことはもとより、屋上の間のことさえも話さな
かった。しかし彼が地上を去る前に彼らの耳に偉大なメッセージを注いだが、それは彼の心が
はじめから抱いていたものであって、それはこう表現される。「すべての造られたものに福音を
述べ伝えよ。」今や全ての国の境界は取り除かれ、使徒たち周りに投じられた地平線は狭いも
のではなく世界という大きな輪であった。「行って、国々を弟子とせよ。」この方法で雲が彼らの
視界をさえぎる前にイエスは彼らに語ったのであった。その時以来いつでもイエスに従う人々
にイエスはもっとも近くにおり、彼らは全世界の勝利者となる夢を見出した。
 この人を見たものは父を見たのである。ナザレのイエスに私たちは永遠者の心の広さの啓
示を得る。イエスの理念はそのように大きな容積があり、彼の同情、思いやりはそのように広
く、彼の計画がそのように遠くまで届いたのはいったいどこから生じたのであろうか?
それは神がイエスの内に、ご自身を人々に啓示したからである。それは神がいつでもその同
情、思いやりに広く、神の期待はすばらしく、神の愛は限りがないことを示している。神は非常
に世を愛されたので、その独り子を・・そしてこの御子が地に来られ全ての人のために死を味
わわれた・・そして神が使わされた聖霊と神の教会である花嫁もまた世に与えられた。彼らは
世々こう叫び続けるのである。「来なさい。渇くものは来なさい。誰でも望むものに、いのちの水
をただで飲ませよう。」
 それ故これが私たちすべてへのメッセージである。あなたが誰であるかは取るに足らない。
あなたは神の思いと心のうちに確かな場所を持っている。あなたが罪を犯したことがあったとし
てもそれは取るに足らない。あなたは彼の愛の境界の内にいる。あなたが何を言い、何を感
じ、何を考え、何を為したとしても、それは取るに足らない。あなたはまだ彼の愛の対象なので
ある。あなたがいかにしばしばイエスを失望させたとしてもそれは取るに足らない。あなたには
よりよいことが期待されている。あなたが誰であっても、あなたがどこにいても、あなたが何で
あっても、あなたはイエスのご計画の内に含まれている。イエスが人間に関する彼の広大なご
計画を描かれたとき、あなたがたは見過ごされても忘れられてもいなかった。彼が彼の教会を
枠組みされた時、その中の一つの場所があなたに指定された。その場所はそこをあなたが満
たすまで空いたままである。あなたはイエスから逃れることはできない。彼の両腕はすべてを
かき抱く。彼の心の広さは無限である。彼の愛は永遠である。

「私は知らない
 葉の生い茂ったシュロが空高く見える
 彼の島がどこにあるかを。
 私はただこれだけを知っている
 私が彼の愛と思いやりを越えて
 さ迷うことはできないことを。」


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