第八章 イエスの新しさ(新規性、独創性)
 
 「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」・・・黙示 21:5

 「オリジナリティ(新しさ、新規性、独創性)」ということばは新約聖書にはない。というのはパレ
スチナにいた人でイエスが新しいか否かという疑問を持った人は誰もいなかったからである。
誰もがイエスが独創的であると認めていた。イエスの行ったところではどこででも人々は目をみ
はった。ユダヤは眠気のするような所になってしまっていたが、イエスは説教によってその昏睡
状態から目覚めさせた。イエスの行ったところはどこでも彼らが見たこと聞いたことにより熱に
沸き返った。そして驚嘆して叫んだ、「私たちはいまだかつてこのようなことを見たことがなかっ
た。」と。イエスの説教はそれ自体イエスの時代には小説のごとき印象を与えた。「新しい教え
だ!!」が彼の説教に伴った感嘆詞であった。彼のように語った人はかつていなかったという
ことが、もっとも苛酷な批評家たちさえもが抱いた見解であった。彼の態度にもその内容と同
様に、人々の注意を引きつける、神と人に関する新鮮な光を投ずるものがあった。パレスチナ
には多くのことがらに第一人者たる教師たちがいたが、イエスのような調子で語った人はだれ
もいなかった。一般の人々はイエスの態度が従来の専門の教師たちの態度とは違うことを直
ちに見て取った。彼は権威ある者として教えた。人々は自分でイエスが当時生きていた他の
人々と異なっていることをすぐに理解した。彼らはしばしばイエスのことを本当に昔の巨人たち
のひとりが地にふたたび来たのであるに違いないと思った。そして他の時には彼の才能、明快
な説教に対して説明しようがなかったので「この人はなんという振る舞いをすることか!」と言っ
た。国民を震撼させるほどの興奮をもたらしたイエスは、その当時のそしてその世代の誰とも
全く違っていた。もしイエスが古いスタイルで古い教えを繰り返していたなら、学者パリサイ人た
ちの激怒を買うことはなく、ゴルゴタの悲劇をもたらすことはなかったであろう。イエスは彼らに
とって耐え難いほど新しかった。その地が安泰であるとするにはあまりにも多くの斬新な革命
的理念を抱いていた。彼らがイエスを十字架に架けるに至ったのは、彼が凡てのことを新しくし
たからであった。
 おかしなことに、世はついにイエスの新規性に疑問を投げかけるに至った。これは私たちの
時代の激しい論争議題の一つである。数多くの学派の聖書学者たちが声高にイエスの新規性
を否定した。そして勤勉と智慧を傾けて、彼が語ったことは既に過去に述べられていると主張
した。そしてその結果世はイエスがただ一つも新しい理念に寄与したことがないと考えるに至っ
た。イエスのことばさえも詩人たちと預言者たちからとられていると人々は主張している。そし
てまたイエスの持たれた概念のすべてが昔の文章の内に見いだされるとしている。これらのイ
エスの新規性の否定者たちは彼らの事例を造り出すためにイエスが使われたものと似たフレ
ーズを旧約聖書中くまなく捜し、また古代のラビたちの残存するすべての書物によって、イエス
の最善の理念が借り物であることを示す証拠を見つけようと鋭い熱心な目で捜すことをもって
彼らの方法とした。そればかりか彼らの注意はヘブル文学のみにとどまらなかった。このヘブ
ルの預言者が結局のところ盗作者か模倣者であることを証拠立てるため、彼らの証明に遠く
離れた東洋の地の宗教書まで参照した。イエスはその生涯のある時期に、彼に従う人々を指
導するための理念を集めるために、恐らくインドまで旅をしたとまで推測は拡大された。それ故
ある著作者によるとイエスの説教は引用文のつぎはぎである。イエスは彼以前の時代の賢者
たちの踏襲者であり、著名な演説家や詩人たちの模倣者、抜け目のない才能をもって収集し
た多くの意見と時間の原石をより分け、彼が借りてきた宝によって世を幻惑したというのであ
る。
  これら凡てに対して私たちは何と言うべきであろうか。イエスは本当に新しかったのか?この
新規性の問題は常に議論を巻き起こす。新規性を主張した人で、その主張に異議をとなえら
れなかった人はいない。いかなる天才であっても、彼がそこに位置する資格がないと熱心に否
定する世の思想家たちが起こらずにその地位を占めた人はいない。モリエールは恐らくこれま
でにフランスが生んだ最も創造的かつ発明的な天才であるが、当時のフランス人およびそれ
以降のフランス人には、彼が古い書物から盗作したとする人々がいる。
英国で最も新規性に富んでいる詩人はシェイクスピアであるが、彼の同世代の人々は美しい
他の鳥の羽を集めた変装であると非難し、イギリスの詩人がフランスやイタリアの著書からそ
の題材を得たのと似ているとし、彼の発想が真に新規性に富んでいると認めることを好まなか
った。アメリカの著作者の中でラルフ・ワルドー・エマースンほど示唆に富んでいる人物はいな
い。しかし文学の多くの学徒は彼が広い思考の分野の中から落ち穂拾いをしたに過ぎないと
し、彼の随筆は他の王たち女王たちの治める他の地や時期から拾い集めた原石を紐で結ん
だものだと見なした。
  それではイエスは新規性に富んでいるのか?それはあなたがたが新規性とはどういう意味
であると考えるかにかかっている。新規性が、もし誰かがかつて聞いたことのない新語を造り、
他の舌が使ったことのないことばで語ることであるなら、イエスは新規ではない。彼は新しいこ
とばを造り出したりしなかったし、彼のことばの多くは古い昔の時代の香りがする。彼は人の心
がそれ以前に踏み入ったことのない思想の宣伝者でもない。神と魂、義務と摂理に関するイエ
スの主要な思想は、もしヘブルの詩人や預言者たちがすくなくともその中に暗示しただけの著
作に拡張したりしなければ、そしてイエスが教えた指導の原理は彼の時代以前に公にされたも
のであった。これは注意深く物事を考えない人々にとっては驚くべきことかも知れないが、反対
にこれは正に期待した通りのことであることをあなた方は理解できるであろう。もし私たち人類
を愛する神がおられたら、イエスがベツレヘムで生まれる以前に神、魂、義務と摂理に関する
正しい理念を心に抱く人が誰もいなかったとは信じがたいことである。地上に来られて、人々
の心の中の思いには真理に一致する概念がなく、彼らの心の中には神が喜ばれるものを感じ
ることができないことを見いだしたことは、イエスが持たれた真の悲しみであった。神がイエス
を保証無しに放置されたのでは決してないことは事実である。神の御子はつねに世におられ
た。彼はこの世に生まれ出る凡ての人を照らす光である。はじめから彼は人々に正しい理念と
正しい感情、彼らが正しい判断と決断に到達する助けを与えられた。それ故、私たちはイエス
の受肉以前の思想を完全に教えなかったということは期待すべきではない。私たちは、イエス
があらかじめ教えられたすべてのことを私たちが見いだすことができ、彼の受肉後の理念はそ
の原石が聖霊によって動かされた初期の時代の聖なる人々の著作の中にみいだされることを
期待すべきである。イエスは、かつて聞いたことのない理念の示唆、それまで人々が抱いたこ
とのない真理についての解釈のためにではなく、全能者のことばを含む昔の著書宣言を引用
し、詩人たち預言者たちが見た幻の意味を十分に説明するためにきたのであった。彼は昔の
理念あるいは昔の信仰を破壊するために来たのではない。彼はそれらを十分に完成させるた
めに来た。それまでは前兆、予想、推測のみ存在したが、今や時が満ちて神は神の御子の十
分なことばによる宣告をなしつつある。
 従って、その点から私たちはイエスの新規性を探求するのである。私たちはイエスの持たれ
た概念にそれを見いだすのではない、むしろイエスの強調点、命と世についての解釈にそれを
見いだすのである。イエスは古いイザヤ書の章を読まれることから始められたが、それまで誰
も知らなかったある強調点をそれに与え、その結果新鮮な啓示の力がナザレの会衆の上に炸
裂したのであった。人々は聖書を読んでいたが、どのことばが重要であるか知らなかった。イ
エスは理解していた。その結果聖書は新しいものとなった。宗教には式典の部分と倫理の部
分がある。体と精神を持っている、地上にある他のすべてのものと同様である。しかしユダヤ
の教会の指導者たちは重視すべき点を忘れてしまっていた。イエスは知っていた。
犠牲よりも憐れみを重視することによってイエスは宗教を新しくした。人々は世をどのように解
釈すべきか忘れてしまっていた。人がおり、しきたりがあったが、イスラエルの最も賢い人々
は・・しきたりと人間と・・どちらが最も大切であるか忘れてしまっていた。イエスは個々の魂を
大切にすることによってこの世の歴史に新しい時代を開かれた。
 同様にイエスの教え方にはそれまで人々がモーセやエリヤの声によってさえも聞いたことの
ないある強調表現がある。それは保証、確かさ、権威の強調である。それは話したことばによ
るのではなく、彼がそれらのことばを話したその方法にあって、それがことばにいのちを与える
効果を決定的なものとしたのである。イエスと同じような強調はパレスチナではかつて聞かれ
たことがなかった。彼の声には決して震えがなかった。なにか問題がありそうな説教は存在し
なかった。彼は決して臆したり、考え込んだり、心の動揺を示すイントネーションを使ったりしな
かった。彼は常に積極的であり、確固としていて、誤りがなかった。「誠に、まことに、私はあな
たがたに告げる。」それが彼の話し方であって、他の追随を許さないものであった。
 この新しい調子と新しい強調は、新しい人格が生みだしたものであった。イエスが肉体を持
たれる以前にはそのような人物は存在しなかった。彼は新しい人であった。ローマの兵士たち
さえもイエスは彼らがそれまでに知っているすべての他の人々と異なっていると感じた。イエス
が持っていたすべては私たち普通の人間の機能と感情であった。しかしイエスの内に見いださ
れるそれらのコンビネーションと強さを持っている人は誰もいなかった。ある人はこう言った。ど
の流派の芸術でもひとりの芸術家が賞賛されるのは、彼に他者と異なるものが存在するから
ではなく、ただすべての人々が熱望してやまないものをもっとも良く著すからであると。イエスは
非の打ち所がなかった。彼の内には何と充ち満ちたいのちがあったことであろうか。何という
力を彼は持っていたことか。彼が指先で優しく触れることに自然界は反応した。彼はかつて存
在した他のすべての人と異なっていたし、彼自身もそういった。彼は自分を独特の位置に上
げ、他のすべての人たちが持っていることを否定した優位性と権利とを自分は持っていると主
張した。イエスは、私は世の光である、いのちのパンである、いのちの水である、ただ一人のよ
い羊飼いである、道である、真理である、いのちである、神と人との中保者である、神を完全に
知っており世をその罪から救うことのできるただひとりの人であると主張した。ここに私たち
は、独一性といかなる意味に置いても新規性をもっているものにぶつかる。パレスチナの中で
も外でも、他の誰もこのような流儀に沿って話した者はいなかった。インドでもどこでもこのよう
なことばはかつて聞かれたことがない。ヘブルの詩人預言者の最大の人たちにさえもこれに似
ているものはなかった。イエスがご自身について語られた時、私たちは私たちの世の音楽の中
に新しい特徴を捉えた。あなた方が、誰かがイエスの新規性に異議を唱え、ラビたちの著作に
同じ章句があると語るのを聞くとき、福音書の中にある、イエスが自分は何であるか宣言して
いる節に対応する章句があるか尋ねなさい。
 ヨハネは、最も良くイエスを知っていたが、イエスがこう言うのを聞いた。「見よ。私はすべて
のものを新しくする。」イエスは自分が新しかったからこう言うことができたのであった。私たち
のような弱点と恐れ、もろさと罪を持つことなく、彼の目は私たちがそれらを見るようにではなく
物事を見、彼の感覚は私たちのおぼろげな理解のようではなかった。彼は言った。「私のとこ
ろにきなさい。そうすれば私はすべてを新しくしてあげるから!」生活のやり方の変化を私たち
に与え、どうすれば私たちが重要でないことばから重要なことばに強調点を変えることができ
るか私たちを教え、愛する心の本質との比較によって方法や形式が取るに足らないものであ
ることを示すことによって、恐ろしい宵闇のように私たちの周りを囲んで立っている恐れを取り
除くことによって、そして私たちの枷を打ち砕き、神の子供たちに属する光と自由を私たちにも
たらすことによって、イエスはそれをなすのである。これは新しい業であり、ただイエスのみそ
れをなすことができる。彼はそれをパウロに対して行われた。パウロは学者であって、その中
に現代の学者たちがそのような宝が詰まっていることを見いだすこれらの素晴らしいラビたち
の著作に通じていた。しかし最も偉大なラビたちの教えたこれらの素晴らしい著作もなんらか
の理由でパウロの必要の核心に至らなかった。パウロは「私はなんと惨めな人間だろうか。誰
がこの死の体から私を救ってくれるのだろうか?」と叫び続けた。そしてある日彼はイエスに出
会った。すると見よ。凡てのものが新しくなった。その日から死に至るまでパウロは古い人を脱
ぎ捨て、神が義と真の聖の中に創造した新しい人を着ているとパウロは人々に主張した。
 あなた方の内のある人にとっては、人生はますますやっかいで世は単調で魅力がないものと
なっているかもしれない。人生はその火花と風味を失い、あなたがたにとっては最早世はチャ
ールズ・ラムが自分自身のために言ったような「非常にすばらしい場所」ではあり得ないかも知
れない。日々はもう擦り切れ、全てのものはその花を失ってしまった。何をしたらよいだろう
か?こう問うことは賢いことである。イエスのところに行きなさい。そして彼が新しくされるように
自分を渡しなさい。あなた方のいのちを彼のいのちの中に深く沈め、彼のように物事を見、神
に仕えることを捉えなさい。イエスの立脚点に立ち、その態度に倣い、彼の強調点を捉え、彼
の声の抑揚を吸収しなさい。そうすれば疑いなくイエスはタルソのサウロになさったと同じことを
あなたにされるであろう。そして彼は彼が成し遂げられたことを、今も多くの人々にされつつあ
るのである。・・彼は全てのものを新しくする。彼は人のいのちを一体化させ、単純化させ、そ
れを高め、その性質を変え、その姿を変貌させる。それはすべてイエスが主、心の救い主であ
るからである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いもの
は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」


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