七章 イエスの均整

 「その後はもはや彼に質問する者はいなかった。」・・・マルコ 12:34

 イエスの均整ということばによって私が意味したことは、彼の機能の素晴らしいバランス、彼
の天性の均等さである。少年なら誰でも彼の手のひらの上で棒をバランスさせることや、彼の
指先にその棒の一端を載せ、立てておくことを知っている。わずかな訓練によって彼はその棒
を完全に立てたまま保つことができるようになる。この平衡は、二つあるいはもう少しの力が拮
抗することによって保たれる状態である。ある人が、この荒々しい世の嵐の真ん中で自分を冷
静に保つことができるのもまたそうである。この平衡はまず第一に、ある機能のバランスによ
るのである。私たちがバランスよく保たれている人を見いだすのはなんと希なことであろう
か!!一方に偏り、非対称、不均等になっているのが平均的な人である。もしある人の体が不
均等であったら、私たちはその人を可哀想だと思う。もし一方の腕がもう一方の腕より遙かに
長かったり、あるいは一方の足が他方より遙かに短かったり、一方の耳が他方の耳より遙か
に大きかったら、私たちは彼を不具者であるといい、彼の身体障害は私たちに憐れみの心を
起こさせる。しかし、この肉体における対称的な発育の欠如は、心情の対称性の欠如とは全く
比較されない。体が変形していない男女を見いだすことは希であるし、その心情が偏っていな
い人を見いだすことも希である。私たちは凡て、私たちの天性の一方がより発達し、他方は発
達不足である。私たちの機能を丁度よい均衡に保つことはほとんど不可能である。もし私たち
がある特性について強かったら、その反対側の特性に弱くないということは希である。私たち
が熱心、極めて熱心であるとき、私たちのその熱心が私たちを熱狂に走らせることがある。も
し私たちが感情的である、過度に感情的である場合、私たちの感情がヒステリーに変わること
がある。もし私たちが幻想を抱きやすい、非常に幻想を抱きやすいと、私たちは私たちの守り
を、突飛なものであるとか、幻想に過ぎないものとしやすい。もし私たちが実践的であり、非常
に穏健な判断をするとき、私たちには退屈なものあるいは鈍いものになる危険がつきまとう。
もし私たちが非常に大きな勇気を持っているとき、私たちの勇気が私たちを無鉄砲なことに突
き進ませる。もし私たちが抜け目ないものであるとき、私たちのその抜け目のなさが常に私た
ちを臆病なものと変えるのである。もし私たちが新規性に富み、ユニーク(独一性)であったら、
そのユニークさが常に私たちを偏ぱな者に導く危険性がある。もし私たちが同情深かったら、
私たちの同情は私たちを感傷に走らせる。もし私たちが敬虔であるなら、私たちの敬虔には私
たちを聖人ぶらせる傾向がある。もし私たちが宗教的であるなら、私たちの宗教は迷信にすり
替えられる傾向がある。いかなる徳もその制限された点を超えると悪と変わり、いかなる恩寵
も過度に発展すると欠点であり傷であるものとなる。
 あなたがたの知っている男女について考察してご覧なさい。彼らのうちどれだけの人々が、
彼らは素晴らしいバランスのとれた姿勢を保っている、ということができるだろうか?「ああ、あ
の人があれをそんなに多く持たなければよかったのに!」「ああ、あの人がこれをもう一寸持っ
ていればよかったのに!」これが、私たちが私たちの前を通り過ぎる人々を判断して常に感じ
ることである。「彼は理想に近い人物ではある・・しかし・・、」「彼女は女たちの間で女王のごとく
である・・しかし・・。」品性をあるべき姿にするために必要な何かが少し足りないことが常であ
る。
 けれども私たちがイエスのところにやってくると、私たちは欠けのない人の存在を発見する。
彼は熱心であり、熱意に燃えている。しかし彼は決して熱狂者にはならなかった。彼は感情的
であり、人々は彼の心の震えを感じ取ることができた。しかし彼は決してヒステリックではなか
った。彼は想像力豊かな人であり、詩と音楽に満ち、至る所で自然の姿を見、山海を問わず彼
はその視線をもって、凡てのものに霊感と詩人の夢を投げかけた。・・しかし彼が常軌を逸する
ことはなかった。彼は実践的で、如才なく、現実に則していた。しかし彼は決して平凡でも鈍くも
なかった。彼の生活は常にロマンスの素晴らしい活気に満ちていた。彼は勇気があったが決し
て無鉄砲ではなかった。慎重であったが臆病ではなかった。ユニークであったが変人ではなか
った。同情深かったが決して感傷的ではなかった。大きな同情の流れが彼の優しい心から同
情を必要とする人々に向かって流れ出た。しかし同時に、その同じ彼の心から悪しき働き人た
ちを痛罵し打ち倒す溶岩が流れ出た。彼は敬虔であった。しかし彼が聖人ぶった形跡は存在
しない。諸本中に風刺的に描かれているすべての口ばかりの胸くそが悪くなる敬虔は、強い信
念に基づいた敬虔からはほど遠いものであって、啓発されていない心情の産物である。彼は
宗教的であり、その顔を神に常に向けている最も深い宗教の人であった。しかし迷信にまで陥
ってしまうことはなかった。
 彼は凡ての点で非常に円熟しており、凡ての面で非常に完全であった。人々は彼に匹敵す
る人を知らなかった。彼はどんな気質であったろうか?それを述べることは不可能である。彼
のところにやってくる人はすべて彼のなかに必要とするものを見いだす。彼は彼の内に凡ての
徳を所有していたが、そのうちどの一つも過剰ではなかった。彼は凡ての恵を明らかに示した
が、そのうちのどの一つも完璧な輝きを持っていた。彼は美しく、対称的であり、究極の完全を
もって歴史中に立っている。
 彼の力のバランスからその振る舞いは、無類の均整のとれたものとなった。彼は常につむじ
風の中に生きていた・・彼の周囲にいた人々は芦のように曲げられたが・・彼は決して揺れ動
きはしなかった。人々は彼を陥れようと罠を仕掛け、彼はその真ん中を勇敢に歩んだが決して
罠にはまることはなかった。当時の知的方面の達人たちが彼の失言を捉えようとしたが・・彼ら
は決してそれができなかった。彼の敵たちが彼をうろたえさせようとベストを尽くしたが・・彼ら
は決してできなかった。彼らはイエスの頭上に投げ輪を投げたが・・彼らはイエスの首に投げ
輪を掛けることは決してできなかった。彼らは穴を掘ったが・・イエスは決してその穴に陥ること
はなかった。どこにいってもイエスは彼の言葉尻を捉えようと待ちかまえている敵に取り囲まれ
ていた・・しかし彼らは決してイエスの言葉尻を捉えることはできなかった。彼らは、イエスがそ
れによって自らを罪する答えをすることを期待して、イエスにあらゆる種類の質問をした、しか
しイエスは決して罪に陥ることはなかった。彼らは、私たちはイエスをこっちの角でだめなら反
対の角で捉えようといって、次々とイエスにジレンマに陥る問題を持ってきた・・しかし、いつで
もイエスはそれを逃れた。彼らは彼らのベストをなした後、戦場から消えることによって退場し
た。イエスは文句なしの勝利者として残された。
 この素晴らしい均整はイエスが十二才の少年であったとき神殿の中でも見られた。彼を中に
して老人たちは彼の答えに驚嘆したのであった。彼の公生涯の始めに彼は彼の耳に誘惑の
声を聞いた。悪しきものは、彼のもとに繰り返し新らたな魅惑するものをもってやってきたが、
彼は常にその誘惑に対して適切な聖書のことばを引用して誘惑者に投げかえした。人々はイ
エスに安息日に関する律法を破っていると思わせようと試みたが、イエスは直ちに自分の行っ
ていることが正しい理由を、聖書によって証明した。人々はイエスの説教中に妨害をしたが、
彼は決してかき乱されはしなかった。ある人はこう叫んだ、「私の兄弟に、私と遺産を分けるよ
うにさせてください。」稲妻のように素早い回答が返った。「誰が私をあなたがたの裁判官にし
たのか? 私はこう言いたい。あなたも他の凡ての人もどん欲に気を付けなさい。」ピリポ・カイ
ザリヤで、そこに行けば殺されると予想されるエルサレムに行こうとするイエスを、ペテロが止
めたとき、イエスはこういった、「サタンよ。私の後ろに下がっておれ。」彼はその声を以前にも
聞いたことがあった。彼は彼の友の唇からもそれを聞き分けた。彼の友の口を通して悪しき者
が最後に語ったことを物語る資料のひとつである。そのような欺きはイエスには通用しなかっ
た。
 イエスの生涯の最後の木曜日に、彼らはイエスを殺そうと決断した。凡ての異なる政党が力
を結集し額を寄せて、この若い預言者を牢に入れるための計画を練った。パリサイ人たちは
彼のもとにいってこう質問した。「カエサルに税金を納めることは律法に適っていますか?それ
は悪意の質問であった。もしイエスが「そうだ」と言ったら、それは彼を愛国的な心情を持ち、そ
れがユダヤ人のお金を異邦人の宝とすることであると固く信じている凡てのユダヤ人に憎ませ
ることであった。もし一方で、イエスが「ノー」と言ったら、彼をローマへの裏切り者として証明
し、ローマの官憲がただちに彼を捕縛できることになるのであった。イエスはどうすればよかっ
たのか?一枚のお金を手にして彼は言った、「これは誰の肖像か?」彼らが「カエサルのだ」と
言ったとき、彼はそのお金を彼らに返し、言った、「カエサルの物はカエサルに返し、神のもの
は神に返しなさい。」パリサイ人たちはうぬぼれの強い人々であったが、彼らはそれからはもう
質問しようとはしなかった。
 自分の手で試してみようと思った律法学者がいた。「何が律法の中で最も大切な戒めです
か?」と彼は尋ねた。それに対してイエスはこう答えた。「心を尽くしてあなたの神を愛し、自分
自身のように隣人を愛しなさい。」「しかし、誰が私の隣人ですか?」それでイエスは彼に、道ば
たにいた人に会った祭司とレビ人とサマリヤ人について話した。その物語を彼に語った後、イ
エスはこの質問をその人の心に突き刺した。その三人のうち誰が強盗に襲われて倒れていた
人の隣人であったか?その後、律法学者たちはそれ以上イエスに問題を尋ねることはなかっ
た。
 イエスが捕縛されカヤパのもとに連行されたとき、預言者の驚くべき沈着さをもって大祭司を
狼狽させ、物が云えなくなるほどにさせたのであった。大祭司はイエスに対してなにもできず、
イエスをピラトのもとに送った。ピラトはイエスに質問し、イエスを恐れるようになった。なんとい
う構図だろうか!ガリラヤの預言者はまっすぐ立ち、静かに、動揺することなく言った、「わたし
は真理を証しするために生まれ、この時のためにわたしは世にきたのである。」ピラトは縮み
上がり、臆し、言い逃れのために手を洗って言った、このような人には何かを求めることはでき
ない。イエスは沈着であったが、永遠の町の総督、血と鉄の帝国の僕であったピラトは・・まっ
たく平静を保てなかった。イエスが3年間公に語りつづけたにもかかわらず、彼の敵たちは彼
の説教を捉えることができなかったことは興味深い事実である。ついに彼らは偽りをでっちあ
げるしかないと悟ったのであった。イエスの敵が、不公平、偽り、嫌悪を持ってしても、誰一人
イエスを短気なことばや悪い雰囲気にさせることができなかったこともまた注目に値する。ほと
んどの人は平静を保つことに貧弱であり、ほんのちょっとしたプレッシャーによって、相応しくな
い発言やキリスト者らしくない姿勢にさせられるのである。イエスは、いまだそれを受けたこと
が誰一人なかったほどの最悪意の酷評のプレッシャーのもとでも、非常に確固とした平静を保
ったのであった。彼の均整は神からのものであった。
 イエスは非常によくバランスがとれ、素晴らしい均整の持ち主であったが故に、続くどの年代
の人々も霊感を求めて彼のもとに戻ってくるのである。1世紀の人々がイエスのうちにあるべき
人間の理想の姿を見、4世紀の人々も彼の精神の健全さを見、16世紀の人々も過去のすべ
ての人々と同じに感じ、20世紀の人々も彼のうちに完全な模型を見いだしたと感じていること
は驚くに値しないのだろうか。知性に生きている知的な人はイエスの内に自分の道案内と指導
者を見、感情の躍動を望む情緒豊かな人は霊感を与えられるために彼を見、魂を高揚させる
ことを熱望する人はいのちのことばはあなたがお持ちですと告白しつつ彼の足下に座るであろ
う。さて今や新しい複雑な問題が商業生活、工産生活、社会生活に起きてきているが、イエス
はすべての戸を開け、完成し、完全な生き方の秘訣を知っていると感じて、深い黙想のうちに
イエスを見る。イエスのうちに恩寵がありそれは色あせることはない。イエスのうちに魂の健全
さがありそれに尊敬させられる。そして私たちは次の世代の人々がイエスの品性には傷が無
く、イエスの生涯は非の打ち所がないことを知ることを望んでいる。



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