第六章 イエスの合理性

 「はじめにことばがあった。」・・・ヨハネ 1:1

 イエスの合理性、その判断の健全さ、むらのない思考、その良識、心情の健全性について考
察しよう。ある傑出したローマの詩人は、健康な体に宿る健全な心情を持つことが、人間にとっ
ての最高の願いであるべきだと確信した。健康な体に宿る健全な精神は、古代においても現
代においてもすべての大きな教育システムの〈最善の〉目標とされてきた。
 その理想的な姿はナザレのイエスによって実現された。不健全な心情は通常考えられている
よりも遙かに当たり前になっている。正常な心情は全くまれであって、そのようなものは全く存
在しないと宣言してもよいくらいである。精神病院に隔離されている男女は、その精神操作が
狂っている死ぬべき体の持ち主たちのほんのひとかけらに過ぎない。私たちのそのことばは、
精神的な動揺の広い分野についての痛ましい証言を提供している。私たちは愚かな人、注意
散漫な人、心を病んだ人々について話さないのではないのか?気まぐれな人、移り気な人、偏
頗(へんぱ)な人、常軌を逸した、むら気な、心のふらついた、ヒステリックな人、多くの種類や
程度の取り乱した不均衡な心の人がいる。そしてある人が正常で正気な働きをする心を持っ
ている時、彼のことを私たちは良識の人であるといい、彼を賞賛するのである。私たちはそれ
が有効であるからでなく、同じ人種に属する多くの個々人に広く行き渡っている特質と力の結
合であるから、それを「良い、共通の」認識と呼ぶ。イエスは比類のない良識の人であった。
 あなたがたが、彼がいかに理にかなった人であったか知りたいなら、彼の生活の中における
振る舞いを研究しなさい。人々の間に殊にある特定の年代の若い人々の間に広まった、イエ
スは不合理であり、そのためにキリスト教はいつも争いを引き起こす宗教であるという印象が
ある。若者たちはしばしば「私は自分の理性を用いたいから教会に加わりたくない」という。イ
エスが最初から最後まで理性を用いたことを思えば、そのようなことばはなんと奇妙なことであ
ろう。キリスト教は絶え間なく大胆な知性の訓練を要求する世にある宗教のひとつである。
人々は、自分が偏見と思考の停止に陥る訓練をしているという事実にも拘わらず、しばしば彼
らが理性を用いていると思っている。私は人々がキリスト教は非合理であると毒づくのを聞い
たことがある。その理由はある一人のキリスト者がある特定のことについて語ったためであっ
た。その内容は、全ての彼に従う人々が考えあるいは語る全てのことについてあたかもナザレ
のイエスに責任があるとしているようなことである。他の人々は彼がある本の中で読んだある
文章の故に望みがないところまでキリスト教から離れている。何と不合理なことか!その名を
冠してこれらの人々が考え公にしたことの全てを、ナザレのイエスの責任にするとは確かに公
平でない。もし誰かが、キリスト教が理性的であるか否かを知りたいなら、なぜ彼らは福音書を
読まないのだろうか?彼らは短絡的である。少なくとも週に1回はそれを読むことができるの
に、キリスト教が真にどのようなものか示す全ての権威ある情報の資料である福音書を読むこ
とを真っ向から拒絶する。多くの人々は400ページの小説を読むことをものともしないのに、四
福音書を読むという仕事には尻込みをするのである。キリスト教の非合理性を語るのは正に
そのような人々である。何故不合理なのか?キリスト教には一冊の権威ある本しかない。なぜ
それを読まないのか?
 あなたがたの新約聖書を開き、イエスが生活の中でとった態度をご覧なさい。「生きる」という
ことばはしばしば彼の唇に登った。彼はそのことを好んだので彼はそのことばを好んだ。彼は
人が生きることを望んだ。彼にとって世の悲惨さは、人間が至るところで非常に空疎で貧弱で
あることであった。「私は彼らにいのちを得させるために、しかもそれをより豊かに得させるた
めに来た。」このように彼は彼が来た目的を表現した。「私は甦りでありいのちである。」、「私
は道であり、真理であり、いのちである。」そのような語句は、彼が人間に彼の教えと彼の人格
を与えることに彼が熱心であったことを示している。どこにおいても人は生きることを望んでい
るが、世の悲惨さは彼らがそれに成功しないことである。いのちに導くひとつの道がある。しか
し、それを見いだす人はほんの僅かである。テニスンは彼の詩中に誰もが感動するこのことば
を表現した。・・・「それは、私の気力が衰えているときに私の必要とした、より十分ないのちで
ある。」しかし、悲しいかな!私たちは生きる力を損ない、精力の泉を枯らすこと、正にそういう
ことを行っている。私たちはみな物まねの好きな被造物であって、私たちを傷つけるこれらのこ
とに囲まれている習慣と手段をまねている。私たちはみな臆病であり、私たちの生来の権利に
目をつむり、無理強いしてごまかすことを自分自身に許容している。私たちはみなどん欲であ
る。熱心に私たち自身の心を熱に浮かされたようにし、みじめにするものを手に入れようとす
る。そして私たちのいのちのもっとも豊かで満足すべきものを失うのである。私たちはみな近
視眼であり、直ちに終わりに至るものと引き替えに、来たるべき年の宝を失うのである。私たち
の多くにとって人生は十分でも、豊かでも、さわやかなものでもない。その理由は私たちが疑い
によるハンディキャップを持ち、不合理な基準と愚かな世の要求に応じているためである。イエ
スの目的は足かせを砕き、人生をその完成に導くことである。人生の豊富さ豊かさを減らすこ
とをするのは愚かである。私たちの行為が、私たちが人生により豊かな能力と力を与える物事
をなすことのみであることが合理的である。イエスは常に正しく生きる方法について論じられ
た。彼にとっていのちはいつも卓絶した重要性をもっている宝であって、彼の質問「もし全世界
を得たとしても自分のいのちを失ったら何の利益がありますか?」世の人の心に確実に永遠
にとどまったことばのひとつである。
 人々の愚かさを明らかにするためにイエスは質問をすることを習慣とした。愚か者は自分自
身の愚かさに直面しまなければ決して恥はしない。人はよく考えないので愚かで間の抜けたこ
とをする。もし彼らが反省の時を持ったならそれらを行うのを止めたことであろう。イエスはいつ
もこういった、「あなたがたはどう思うか?」と。イエスの人々に対する唯一の望みは彼らが考
えるようになることであった。イエスの態度は最初から最後までイザヤが神について描いた態
度であった。彼はいつも言った。「さあ、来なさい。論争しようではないか。」新約聖書の一部で
ある山上の垂訓が、今日世界中で賞賛されているのは無理からぬ事である。全ての文章は真
珠であり、すべての段落は古い表現でなされた純粋な良識である。神を冒涜することがらに対
する彼の指摘はなんと健全であることか!誓いをすることは当時においては一般的なことであ
ったし現在においても一般的なことである。しかし神を冒涜することはつねに不合理で馬鹿げ
たことであって、そのことはそれに身を委ねる人々にさえも同意されている。ヘブル人は神の
名に対する根深い尊敬を持っていた。そしてそれ故に神の名を使わなかった。しかし神の町、
神の玉座、あるいは地、あるいは天、あるいは自身の頭を誓いに用いたが、これら全ては浅
薄で不合理であった。そしてイエスはそれを嘲笑された。あなたが言いたいことを言い、後は
黙りなさい。余計なことばはすべて不必要で有害である。これは良識ではないのだろうか?誰
かが感じたこととか考えたことを表現しようと思ったら、自分が考えたり感じたりしなかった関係
ない言葉を引用するだろうか?もし彼が拙劣で野蛮な感情を表現しているのであるなら、彼の
文章に宗教の聖なる名を充当する必要があるだろうか?冒涜は理性に対する罪である。その
中には正気がない。人は、自分の弱さ、自分の語彙の足りなさ、自分の自制力は萎縮しその
脳が異常な働きをしているが故に誓いをする。冒涜は全く非常識で馬鹿げている。誓いを立て
る人は愚かな人のように振る舞う。イエスの心はそれを嫌悪したが、それが愚かで不合理であ
るからである。
  祈りに関する議論にイエスが用いた心情の描写は全く正しいものである。一世紀の人々は
祈りの形式を過度に発展させた。魂に対して体が大きくなりすぎたのである。人々はことばを
増やしたが理念と感情は貧弱であった。彼らは同じことを繰り返し言い、それを祈りと呼んだ。
彼らは敬虔なことばを街角で繰り返し、彼らの近所の人々がそれを祈りだと呼んでくれるのを
見て満足した。イエスにとっては、そのような敬虔はまったく馬鹿げたものであった。もし神が知
的な存在であったら、そのやり方はなんと見せかけだけで無駄なものであることだろうか?もし
神が霊であるなら、神への祈りは神との意思疎通をもたらすものでなければならず、世をすべ
て遮断し、一人になることがベストである。ことばを繰り返すことは不必要である。 欠かすこと
のできない大切なことは真実と霊的な触れあいである。それは、なんと賢明で合理的なことで
あろうか。それは決して時代遅れになることはない。同様に断食の問題に関するイエスの見解
は正当である。
 パレスチナにおける断食の実行は制度化され肥大化していた。人々は定期的に断食した。
詳細な規則が定められそれらの規則に正確に従うことが敬虔の目的と化した。人々は一週間
に一度ならず何度も断食したが、これらすべては神を喜ばせることだと思っていた。しかしイエ
スにとっては、その断食制度全体が機械的で忌むべきものであった。その中に合理的なもの
は存在しなかった。それらは完全に形式化し、役に立たない愚かなものであった。更にその
上、それを飾り立て、世の人々の目にそれを見せびらかすという軽蔑に値するものであった。
断食は、それが完全に霊的な礼拝としてであったらならば、それは価値のあるものである。そ
れは主要でコントロールされるべき精神である。それは全能者を喜ばせるために食を断つこと
ではなく、断食をしている人の心の整えることである。更に、断食は定期的になされるべきでは
ない。イエスはラビたちの規則に従うことを拒絶された。彼は弟子たちにも同様にそれに従うこ
とを求めなかった。多くの規則に従う人々はひどく苦しんでいた。彼らはイエスのところに質問
をしにやってきた。イエスの回答は全問題の正に核心を突くものであった。「花婿の友人たち
は、花婿と一緒にいる間に断食をするだろうか?やがて花婿が取られる時がやってくる。その
時彼らは断食するであろう。」なんと合理的な説明であろうか!断食は霊的な礼拝なのであ
る。体は魂によってコントロールされるべきである。魂が喜びに満ちていて断食を必要としない
時期がある。しかし魂が沈滞している時期があり、そのような時こそ体は食物を必要としない
のである。規則に従って行われる断食は不合理である。そのような断食はイエスの宗教の一
部分ではない。しかし今日のキリスト教世界のどこにおいてもそれが存在するが、それはユダ
ヤ主義の単純な復活である。
 しばしばイエスは質問によって完全な宗教の倫理行動を明らかにした。多くの地につく虚栄
の泡沫を、穿った質問の鋭い視点によって彼は一刺しした。「いのちは食物に優っていないの
か?」もちろん、そうである。誰でもそのことを知っている、その瞬間彼はそのことについて考え
ることを止めた。しかし、死ぬべきものの多くが、命が第一であることを忘れる。そして食べるこ
とを第一にするためにいのちから栄光をはぎとるのである。皿、ナイフとフォーク、台つきのカ
ップ、料理の数に関して気にする人々の間ではなんと多くのささやきがなされることであろう!
食べるという単純な行為が仰々しく、より一層儀式張って複雑になり、女たちを重荷に倒れさ
せ、人生の薫りと喜びを失わさせるのである。体は着物よりも大切ではないのか?然り、その
通りである。今、私たちはそれについて考えることを止める。しかし、私たちが世の中で行って
いる行為からは、衣類が体よりも勝っていると考えているように見える。衣類が第一で体が第
二であるという原理に立って幾千のファッションが生きている。体が必要としているものは、す
べての器官にとってその働きをするためによく、健康であるということが、多くの場合に全く考
慮に入れられていない。更なる疑問は:ファッションとは何か?である。スタイルの世界は何を
要求しているのか?衣類は飾り立てられ体の方が衣類に合うよう形作られる。たとえ体がその
操作のために苦しく、物理的な生活が危険でその量を減じても。青白く神経質になった人々の
数を数えることができるだろうか?すべては着物が体よりも大切だとしていることが原因なので
ある。イエスの明瞭な目では、そのような行為はすべて愚かで邪悪である。いのちが第一なの
である。人間は体の物質的な部分を最もよく保たなければならないし、神がこのように生きよと
指示された生き方に最も適するように体を造る方法をもって装わなければならないのである。
例え全世界がそれを否定しても、それが最も合理的なのである。イエスの質問はいつも鋭く穿
つものである。人間は羊に優っていないのですか?勿論そうである。例え愚かな世がそう信じ
ているが如くに振る舞っても。一世紀においては、人々は血縁者でない人々に対するよりもは
るかに牛の健康をおもんぱかった。こういった形の野蛮さはいまだに全く無くなってはいない。
どのアメリカの都市においても人々が寄り集まって、その足で立てるように助けることなく馬が
通りで倒れることはない。馬が町中で倒れることは耐えられない光景なのである。しかしよっぱ
らいがどこか目につかない所か街角で倒れて死んでいても、それは少年たちがあざ笑う光景
であり、大人たちさえ憐れみの心さえ持たずに彼の傍らを通り過ぎるのである。社会は動物と
人間の取り扱いに関していまだ合理的ではない。
 イエスは宗教上の制度によって、ふらついたりひるんだりさせられることはなかった。安息日
以上に礼拝を保つ制度はユダヤ社会には存在しなかった。そのような深い敬虔も奴隷制度へ
と退化した。その日は聖日と定められたがそれによって生かされるものはなかった。安息日に
関する規則はそのいくつかを破ることなく守ることができないほど数多く定められた。イエスの
当時の最も良識あるはずのパレスチナの人々の、安息日礼拝に関する議論が報告されてい
るが、その幼稚さと非常識さは私たちを驚かせる。それについて積み上げられたものはすべて
がらくたであることをイエスは直ちに見て取った。そして真昼の太陽のように光り輝く金言を提
供された。「人のために安息日が作られたのであって、安息日のために人が造られたのでは
ない。」人のいのちは常に第一に考えるべきことである。日は人間に仕えるものである。安息
日に善を行うことは律法に適っているか?安息日にいのちを救うことは律法に適っているか?
そのような質問をもって、エルサレムの愚か者たちのふくらませた論法に穴を開け、耐えられ
ないまでになった束縛から人々を自由にしたのであった。イエスの安息日に関する視点は合理
的である。
 しかし、時の経過はイエスの比類無い良識のすべての証拠を消失させた。彼は静かな指摘
を持ってすべてのぼんくらたちの群れを飛び上がらせた。「健康な者は医者を必要としない。必
要とするのは病人である。」彼は多くのことをなすことを人々に問いかけたが、常にそれらにな
ぜ彼の指示に従わなければならないのかその理由を示した。愚かな心は新しい物事によって
常に祈りを中断しているが、彼はすべての物事に彼の単純な質問を提供することによっていま
まで考えられなかったものを投げかけた。「あなたがたの中の誰かが、その息子がパンを求め
たとき、彼に石を与えるだろうか?あるいは魚を求めたときに蛇を与えるだろうか?ところがあ
なたがたは悪い者であっても自分の子供たちには良い物をあたえることを知っている。まして
天の父は求める者たちに良い物を下さらないことがあろうか?」勿論!!神の深いみ心に根
ざすものは、私たちにとってすべて最善である。私たちが自分の子供たちに良い物を与えるこ
とを好むという事実は、永遠の父の心の中に同じ意向が存在することの証明である。はじめに
父がそれを持っておられない気質を私たちが持つことは決してない。もし私たちが与えるなら、
勿論神はそれをいつまでもお与えになる。なんと合理的なことか!なんと反論の余地がないこ
とか!祈りに対する論争は不合理である。世を挙げて黄金律と呼ぶ一文が新約聖書中にあ
る。「それ故、あなたが誰かからしてもらいたいように、あなたも彼らにしなさい。」これ以上に
正しい見解があるだろうか?
しかしある人々は問う。キリスト教は世の力に対してめめしい態度を取るのではないか?イエ
スは彼の弟子たちに地に伏して人々に踏みつけにされるようにと勧めたのではないか?ノー。
あなたがたはその発想を新約聖書以外の書物から得たのである。イエスはあらゆる点で良識
があった。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりませ
ん。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」ある種の人々は云
う。豚とは誰のことか?別のタイプの人は云う。私たちにそれを見分けられるのか。凡ての人
は一律でない。凡ての人を同一に扱うことは不可能である。イエスが背を向けた人々がいた。
イエスが返答をすることを拒絶した人々がいた。大祭司はイエスが口を閉ざしておられるので
驚いた。ポンテオ・ピラオは彼の囚人が彼に返事をしなかったので怒った。ここに再び私たち
は完全な良識を得る。私たちのうちのあるものは意味もなく話される馬鹿げたすべてのことを
考え、質問されたすべてのことに回答しなければならないと考えるほど愚かである。そのような
ことは私たちの義務ではない。イエスが宣教のために弟子たちを送り出した時、彼らにこう言
われた。人々があなたがたに喜んで聞かない時、あなたがたはサンダルの塵を彼らに対して
振り払い、どこか他のところに行きなさい。イエスはその考えをご自分にも当てはめられた。も
たついたり甘かったりするほど彼は弱くなかった。彼は必要であれば、彼らをおびえさせるとこ
ろの怒りの火花をもって人々と対面し、厳しい譴責から発することばを彼らの上に注いだ。イエ
スが悪しき人々に対してとった態度ほど合理的なものはどこにもない。
 しかしある人々は言う、「私たちが理解できない多くの教義を、私たちに信じろというのは不
合理ではないのか?」そんな要求をイエスはどこでしたのか?私にはそれを見いだすことがで
きないから、あなたがたはその場所を指し示してほしい。私が新釈聖書を開くとき彼がこう言わ
れるのを聞く。「私についてきなさい。私についてきなさい。」これがイエスの好まれた勧めであ
る。彼が真についてゆくに値するリーダーであるか否かを決める方法が知りたいなら、彼の答
えはこうである。「誰でも神のみこころを行おうと思うなら、この教えが神から出たものか、私自
身が語っているものか分かります。」これは合理的ではないのか?イエスは言われた。もしキリ
スト者生活を理解したいならそれを学びなさい。真理を知りたいと願うなら、真理に生きなさ
い。これこそが良識ではないか。誰かが実際にその宗教に生きることなく、その宗教の真理を
見いだすことができるであろうか?イタリア語を話すことを学びたいなら、単純にイタリア語につ
いて考え、それを読むだけでなく、それで生活するであろう。それは多くの作業を要求するが問
題でない。あなたがたは間違いを犯すことなくある言語を学ぶことはできないし、なすべきただ
ひとつのことはそれで生活し続けることである。イエスのキリスト者生活についての教えもそう
である。人々はキリスト教について考え、読み、説教者がそれについて語ることを聴きながら、
キリスト者になることをイメージしている。なんと馬鹿げたことか!それに生きることをよしとしな
いなら、あなたがたはキリスト者にはなれない。皆さんは、今そうしようと思われるか?





戻る
戻る