第五章 イエスの真実

 「あなたがたは、偽善者たちのようであってはならない。」・・・マタイ 6:5

 すべての徳は美しいが、あるものは他のものに比べて一層優れた美しさを有している。 す
べての徳は大切であるが、その中のあるものは他のものに比べて一層欠くことのできないもの
である。それが欠如すると品性がぼろくずのようでみすぼらしいものになる徳があり、他のもの
にそれが欠如すると魂の抜け殻となるものがある。ある徳はほんの飾りに過ぎないが、明らか
に基本的に重要なものがある。前者が見いだされなくても建物は完全ではないという程度であ
るが、しかしもし後者が存在しなかったならすべての建物は崩壊して廃墟と化す。真実はその
ように重要な徳である。
 それは、それなしにはアーチが崩壊するアーチ頂上の要石である。ことばを変えるなら高貴
な家族の母のようなものであって、すべての徳はその力と美しさをそれから引き出すのであ
る。正直、高潔、公平、公正、誠実、などをはじめ、他の多くがその女王・・真実・・の子供たち
である。
 それは人間の心が本能的に熱望し探し求める徳である。それは両親の目が、自分の子供た
ちのなかにあって欲しいと探し求める特質である。子供のうちに不正直、欺き、不面目なことの
ような何かがあることは、両親の心に血の出る思いをさせる原因である。あなたは自分が思っ
ている通りのことを言っているのか?あなたは自分が本当にそう感じている通りを話している
のか?あなたは私が知っていなければならないことを隠していないか?真実な心の飾りけない
単純さが子供たちのうちにあること以上に、親が子に望むことはなにもない。これは私たちが
人生におけるすべての高い関係に要求するものである。低い関係においては、真実は単に望
ましい程度であろうが、高い関係では絶対に欠かせないものである。
 ある人が舗道を掃除したり、私たちの庭を造ったりしたとしよう。そして彼がいい加減な心で
あってもその両方をうまくこなすことであろう。しかし彼が正直な目で私たちを見るなら、彼の存
在はもっと私たちに快さを感じさせ、私たちは彼を好きになるであろう。僕は不真実であっても
つとまるかも知れないが、友人はそうはいかない。「友」ということばと一緒にできない形容詞
は、「不真実」という形容詞である。あなたがたはそれらを同じ部屋に招いてとどめることはで
きない。それらは明らかに互いに矛盾する。私たちが仲間に私たちに対する不真実を見いだ
した瞬間、彼は私たちの友であることをやめるのである。正に真実は友としての関係の血であ
り息である。「彼はすばらしい」と私たちが大喜びで言うのは、私たちの友のうちに偽りがないこ
とを意味する。彼の性質は損なわれておらず、汚されていない。私たちは絶えることなく、彼と
関係を持っていることができる。私たちは他の人のうちに真実を見いだすとき非常に喜ぶが、
それを見いださなかったなら私たちは哀しみ失望するのである。真実であると思っていたもの
が実は見せかけだけのものであったと解ると、私たちの心はうなだれ、突き刺されたもののよ
うに感じる。信頼していた者が見かけによらない人物であったことを発見することほど、私たち
のいのちを奪い去るものはない。私たちのそば近く生きる誰かが不真実であるという正にその
疑いは、私たちから安息を奪い、全世界は不安なものとなる。
 そして、不真実はいかに当たり前であることか。欺き、不正直、その他あらゆる種類の偽りに
満ちている、なんと悲しむべき古い虚偽の世界に私たちは生きていることか。社会は虚栄によ
って呪われており、商取引は不正直の蜂の巣であり、政治の世界は二枚舌と逃げ口上豊かで
ある。いたるところ、いんちきと虚偽とごまかしがある。あるものは自分にも理解できないほど
の大言壮語する、そしてあるものは彼らが持っていない知識を吹聴する、またあるものは支払
うことの出来ないほど着飾って行進する。多くの男女の生活そのものが膨大なうそなのであ
る。私たちは自分が心に思ってもいないことを言い、私たちが感じていない感動を表現し、私
たちが密かに非難しているものを賞賛し、心のうちで眉をひそめつつも微笑み、実際は呪わし
く思っているときにお世辞を言う。週に百遍も、人々に自分を自分以上のものに見せようと努
力する。詐欺の手段で金銭を得ると牢獄行きであるので、私たちはそれを注意深く避けるので
ある。
 しかし、いかに多くの他のものを、偽りと見せかけで得ることか。それには懲罰がないからで
あるが、あなたがたは全能の神がお咎めにならないと思われるか?そのとおり、私たちは悲し
むべき、欺きと、道徳を喪失した世界のまっただ中に生きている。しかし神に感謝すべきこと
に、私たちがいつまでも信頼できる心の持ち主がそこここにいる。私たちは彼らを実際に試
し、彼らは真実であることを知っている。もし真実を持って生きる人が地上に一人もいなかった
なら、人生は生きる価値がないものとなったであろう。憩いを捜しそれを見いだして、私たちが
繰り返し帰っていくのは、正直な心の持ち主のところである。それは私たちの骨の折れる旅路
でそこから飲み元気づけられる泉である。
 確かに、真実は美しい徳である。それは華やかな徳ではない。それは光り輝いて見えはしな
い。その中で火花は散らない。しかしそれは重大である。それは精気を与えるものである。そ
れは心を元気づけ育てる。それは私たちを最も謙遜に至らせる徳である。私たちに無いもの
があり、私たちのできないことがある。
 しかしこれは私たちすべてが到達することのできるものである・・・私たちは、私たちの心が真
実であるよう神に絶えず祈るべきである。あなたがたは真実の最も好ましい姿をみたいなら
ば、イエスのところに来なさい。ここに偽りを言うことのできない人がいる。
 彼にとって虚偽ほど嫌いなものはない。本当の自分ではないものを装う人ほど彼の怒りを引
き起こしたものはいない。最も嫌悪すべきものとして彼の唇に登ったことばは「偽善者」であっ
た。あなたがたはこれまで、なぜ蛇のように彼の唇から振り落とさずにそのことばを語ることは
不可能であるか、いぶかったことがあるだろうか・・・そのうえに彼の詛いがとどまっているから
である。それはイエスが彼の軽蔑を込めてそのことばを語られる以前は厳しいことばではなか
った。それ以来その語は色あせ失われたものとなった。偽善者は一種の俳優である。その起
源は舞台にある言葉である。劇場では、私たちは男女に彼ら以外の人物であるように見えるこ
とを期待する。通常の庶民が王の外套をまとい、王の如く語り、王の如く行動する。そして私た
ちは騙されているのではないから、それに不満はないのである。舞台の上では、彼らが真にど
んな人物であるか誰にも分からないことを当然としている。しかしこの世の偉大な舞台では、神
はすべての人々に彼らがそう見える通りの人物であることを要求される。もしも私たちが信じて
もいない物事を語り、感じていない物事を偽って言い、持っていない物事をもっていると主張す
るなら、私たちは欺く者、詐欺師であって、世に害悪と混乱をもたらす。偽善者との死闘にイエ
スを駆り立てたのは彼の真実であった。偽善者とイエスは共存できなかった。
 人は真実を語らなければならないということがイエスの一貫した主張であった。当時の宗教
指導者たちは、誓いを二種類に分けていた・・・ひとつは行う義務のあるもの、もう一つは行う
義務のないものであった。もしある誓いが神の名を含んでいたらそれは良心上義務がある。も
し神の名の代わりに他の名をもってした場合には、良心はその義務を負わないとした。イエス
は盲目の、いんちき屋の理由づけを嫌悪された。イエスは言われた、「いっさい誓うな。」「しか
りは、然り、否は否、とだけ言え。」言い換えれば、「もしもあなたがたが物事を強調する必要が
あるなら、それを単純に繰り返して言え。もし人々があなたがたを疑ったら、静かにすでに述べ
たことを繰り返せ。」人のことばは彼の誓いとおなじに確かでなければならない、あるいは私た
ちは自分の誓約と同じ確かなことばを語らなければならないということがイエスの見解であっ
た。もし世界が、神がそれに対してこうあるべきだと望まれる通りのものであったら、なにかが
真実であるということの証明は、誰か一人の人がそれを証言しただけで十分である。もし今法
廷で宣誓が必要であったら、それは悪しきものが多くの人の心を破壊し、通常の人の会話は
信用できないからである。理想の世界では、すべての誓いは不必要で考えもしない。
  イエスの唇から率直なことばが注目に値するほど吐露されたのは、彼の腐敗することのでき
ない真実の故であった。あなたがたも私も率直なことばを好まない。私たちはそれらを滅多に
使わない・・・最小限の頻度でしか。私たちは私たちのことばを水で薄める。それらを操って語
る。私たちは率直で短いアングロサクソン語(英語)に代えて長いラテン語を用いるが、音節を
増やすことによって意味を薄めているのである。例えば、私たちは「嘘」の代わりに「言いまぎら
す」という。その結果偽りはその邪悪さ、いやらしさをすっかり失うのである。しかしイエスはお
世辞や欺きのビロードを着せたことばは用いなかった。人々がありのままであることを助ける
ことがイエスの仕事であった。イエスは正確に彼らの品性を表すことばによって彼らを特徴づ
けた。ある日イエスはエルサレムの町にいた群衆に彼らの父は悪魔であって、彼らは彼らの
父の欲望を行うことに熱心であると言った。彼はさらに悪魔は人殺しであり、彼は真実のうちに
住まず、彼の内に真実は存在しないと付け加えた。
 私たちはそのように率直な話に衝撃を受ける。私たちはそれを好まない。それは私たちが物
事をありのままに表現する勇気がないからではないか?私たちは、私たちの目を見えなくし、
邪悪なことがらを灰色あるいはほとんど白く見せようと試みることが身に付いてしまっているか
らではないのか?
 イエスは堅固に真実であった、そしてその真実さが彼を人々に率直に真理を語ることへと駆
り立てたのである。彼はこれらの人々にこう言った。「もし私が神を知らないといったら、私はあ
なたがたに偽りをいっていることになる。」イエスには彼自身の尋常でない知識を隠しておく強
い動機があった。人は、他の人よりも多くを知っているとか他のだれよりも多くのことをなすこと
ができると主張すると嫌われるものである。常に何も知らない、何もできない、何にも値しない
と言ってわざと謙遜を装う人々のことばを使うことはイエスにとって容易であったかもしれない。
しかしイエスは真理の人であった。彼は、彼の知識は独一のものであり、彼の力には並ぶもの
はないという事実を隠すことはできなかった。なぜなら彼は真理であり、彼は良い羊飼いであ
り、門であり、いのちのパンであり、世の光であるという事実があったからである。彼は非常に
特異な人物であると主張する彼の同国人たちの感情を凶行に駆り立てたのは彼の真実以外
の何物でもない。彼が持っているすべての知識について無知を装い沈黙していたなら、彼が争
った嘘つきどもそのものに彼自身がなることであった。彼の生来の人となりと彼の力の範囲に
関するこれらすべての注目に値する宣言は、彼の心の真実に対する不動の忠実さの故に彼
の唇から語られざるをえなかったのである。
 イエスの警告は、その内に表現されている厳しさと恐るべきことばの故に、しばしば批判と非
難を招いた。彼はある人々に滅びに向かって進んでいることを語り、人の心に身震いさせる語
句をもって彼らが失われ滅びることを描写した。みなさんはそのようなことばの激しさをどう説
明するのであろうか?イエスが罪の滅びの可能性について知らないでそのようなことばを語っ
たとしたら全く馬鹿げている。もし知っていたら、語ることは彼の義務であった。新約聖書の恐
ろしい寓話は、妥協のない真実な心の産物である。その足で滅びの道を急ぐ人々に曖昧なこ
とばで語るであろうか、そのようなことがどうしてできようか?彼のその真実性が、彼を私たち
の冷たい心には誇張と過度の警告に思えることばに駆り立てた。彼はエルサレムにいた指導
者たちを、盲目の人々、愚か者、蛇、まむしと呼んだ。もし彼らがこれらすべてに当てはまらな
かったなら、イエスはそのような鋭いことばを用いて非難されることはなかった。然し恐らく、こ
れらの人々は正しくそれらのことばで述べられている通りのものであったろう・・・では何か?恐
らく彼らは正真正銘うそつきで愚かで盲目な人々で、彼らの哀れな状況を伝えることはイエス
の義務ではなかったのであろうか?真実な友には他の何がなしえたであろうか?彼らは自分
が見えるし賢いと思っていたが、かれらが誤っていたのであるなら、できれば彼らの誤った信
念から救い出すことが正直な人の義務であったのではないのか?しかし彼らが悪意のあるも
ので、執念深く、二枚舌であったら、彼らを蛇、まむしに似ていないと言えるだろうか?
 イエスのことばには苦さの痕跡がない。それは恐るべき事実のしずかな声明である。真実の
主は、導かれ、警告されなければならない人々を正確に特徴づけることばを使うことを必要と
された。イエスの心の奥底は、私は真実をあかしするためにこの世にきた、とポンテオ・ピラト
に述べた彼の宣言の中に見いだされる。それが彼の仕事であった。彼はそれを決して避けな
かった。彼はそれをすることを怠慢にしなかった。彼は一生の間彼の虚言を証明しようとする
人々に囲まれていた。彼が働いたどの町においても彼らはイエスについて嘘をいった。彼らは
イエスの行為ことば動機について誤り伝えた。彼らはすべてを偽りの雰囲気をもって満たした。
 彼を試すために彼に対抗して現れた人々の証言は嘘であった。偽りの心情、偽りのこころの
嘘つきたちと立ちふさがる殺人者たちの見下げ果てた集団のまっただ中で、彼は静かに輝い
て立ち、世界中でただ一人偽りによって唇を汚すことは決してなく、うそによって彼の心が錆び
付くことは決してなかった。イエスが死んで後経過した世紀に、数多くの奇妙でほめられないこ
とがイエスについて言われたが、彼を嘘つきであるという非難をだれもしたがらないということ
は驚くに値する。彼らはイエスを間違えた、空想家である、現実離れしている、熱狂者である、
夢想家であるとは喜んで言うが、ナザレのイエスは意図的な詐欺師であると主張する冒険を犯
す者は決していない。人々は彼の使徒たちを騙り、嘘つきであって、彼らはイエスの人柄と教
えの両方を意図的に曲解して伝えたのであると主張したが、誰もあえてイエス自身を嘘つきで
あると論じる者はいなかった。
イエスには純粋、率直、高貴であるものがあって、イエスの真実さを疑うことは太陽の明るさを
疑うのと同様に不可能であった。この疑いのない真実への忠誠は、彼に他の誰も持つことの
出来ない価値のあることばを与えた。
 他の人々のことばを聞くときには、私たちは少し割引して受け取らなければならない。その会
話に自分自身のすべてをさらけ出す人はいない。彼のことばは彼を隠し、聞く者たちもまた彼
を隠すのである。心の内と口で宣言することとの間には食い違いがある。イエスはそうではな
かった。彼は何ものをも隠さなかった。彼は思ったとおりのことを語り、感じたとおりのことを述
べた。彼はなにもトーンダウンしなかったし、なにも誇張しなかった。彼はすべてのことをあるが
ままに述べた。彼は内なる罪によって曲げることはなかったし、外からの敵の力に怯むことも
なかった。彼の品性は彼の会話によって明らかにされた。ある中国のことわざに、ことばはここ
ろの調べだと言われている。これは正しくイエスのことばについては真実である。彼のことばは
単純にイエスのこころの脈拍である。それらはいままで語られたどのことばとも似ていなかっ
た。それらは一人の人物の精神の完全な彫像を含んでいた。これらのことばのなかにイエス
の偉大な魂が表され、私たちの前に立っている。そして私たちはそれらの中に彼の栄光を見
るのである。つまりこれが、人が欲しているものである。
 このような人は嵐の時の避難所となりうる。この世の虚偽の故に心を病み、私たちが「誰が
私たちに良いものを見せてくれるのだろうか?」と叫びだすとき、私たちはイエスのもとに逃れ
ることができる。人々が私たちを失望させ、友人が少ないとき、私たちは「私は真理である」と
いうお方のところに行くことができる。私たちが疲れ重荷を負っている時、朝のように確かであ
り、星々のように信頼できるお方によって、私たちは私たちの魂に休みを得ることができる。
騒々しい声が世に満ち、どの声を信用したらよいか知ることは困難である。しかしイエスの声
は、不安と疑いを静める確かさを持っている。彼が神について教えることを私たちは受け入れ
ることができる。彼が魂について語ることを私たちは信じることができる。彼が罪と罪の罰につ
いて宣言されることに私たちは同意できる。彼が私たちの魂について語ることに私たちは頼
る。彼が勝利の生活の原理について主張されることを私たちは疑うことなく行うことができる。
彼が私たちに何かをせよと言うとき、それは私たちが行う最善のことであると確信して、私たち
はそれを行うことができる。彼が私たちに行動の道筋について警告するとき、その方向には闇
と死とが横たわっていると知るので、私たちはそれを避けることができる。彼が私たちすべてに
持つよう推奨することはすべて、もし私たちがそれを持っているなら私たちはやがて天の家に
到着することができることを納得するので、私たちは大胆にそれを持つことができる。彼が彼
自身についてまた彼のもとに来る者を決して捨てないから彼のもとに来なさいと語るとき、もし
私たちが彼のもとに行くなら受けいれられることは確かである。彼が「見なさい。私は戸のそば
に立ってノックしている。もしだれかが私の声を聞きその戸を開くなら私は中に入り、彼と共に
食し、彼は私と一緒に食事する」と言われる時、私たちが彼を望むならば天の客となれること
は確かである。つまりこれが、私たちが非常に静かにイエスと共に満足している理由である。
彼は本当におられ私たちを満足させ私たちを癒すのである。
 イエスの真実な心に頼るとき、私たちの心は常に平安である。


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