第四章  イエスの強さ

 「彼らは皆驚嘆した。」・・・マルコ 1:27

 私たちはキリストの生涯に関する信頼の置ける資料はすべて四福音書中に見いだされるこ
とが分かった。私たちがこの資料を研究するときそれが断片的で不完全なものであると結論さ
れる。記者たちは33年のうちの3年間のみを取り扱い、3年のうちから40日に満たない部分
を私たちに語っており、これらの選ばれた日々の断片的な小部分のみ扱っている。
恐らくある人はイエスの生涯を書くことは全く不可能であるというかもしれない。そして、もしイエ
スの生涯ということばによって彼の完全な伝記を意味するなら、それはその通りである。
 しかしもし福音書を書いた人々がイエスの伝記を書こうとしたのでなく、心に思っていたことが
全く違ったものであったとしたらどうであろう。モーリーが「グラッドストーンの生涯」を書いたと
き、彼は分厚い3冊の本を満たした。カーライルが「フレデリック大王の生涯」を書いたとき、彼
は6千ページを越える21巻の書を書いた。ニコライとヘイが「リンカーンの生涯」を書いたと
き、彼らは普通より大きいサイズの10冊の本を満たした。これらの福音書記者たちは明らか
にイエスの伝記を書こうと意図したのではない。そうでなかったら、彼らはそのような狭い制限
の中に自分たちを閉じこめたりはしなかったに違いない。私たちは彼らがイエスの伝記を書い
たのではなく、彼の品性を記したのであるとの結論へと追い立てられる。伝記には膨大な量の
資料を必要とするが、品性の説明にはほんの少しの資料しかいらない。あなたがたは一人の
人物が語るすべてのことばを必要とはしない。ほんの僅か・・雷光のようにぴったりとしたことば
があればよい。そしてその稲妻の光は地平線の彼方から此方まで照らすのである。どの行為
も太陽の光のように闇の世界に視界を与えるようなものであるから、あなたがたはその人の多
くの行為を知ることを必要とはしない。福音書はそのように小さいものであるにもかかわらず、
これまで地上に生を受けた他のどんな人々よりもよりよく私たちはイエスを、彼の思いを、その
情愛と精神を知るのである。新約聖書を注意深く研究した人々は他のいかなる歴史上の人物
の品性にまさってナザレのイエスの品性を知ったと感じるのである。
 ある人々は、「ああ、イエスは2000年前に生きた人だ。だから私たちは彼が本当にどのよう
な品性の持ち主であった分からない。」と言うかも知れない。そう言うあなたがたは間違ってい
る。あなたがたは偉大な人物を彼のすぐそばに立っていたときよりも、すこし距離をおいて立っ
たときにより良く理解できる。真に偉大であった人々は、彼らが生きている間は彼がその真ん
中にいた人々によって彼の価値を評価されない。世はアブラハム・リンカーンが死ぬまで彼を
評価しなかった。彼の偉大な姿は10年経つ毎により高く見えてくるのである。そして次の世代
は私たち以上に彼を良く理解するであろう。私たちはルターを彼と同時代の人々よりも遙かに
まさってよく理解している。私たちは使徒たちを使徒教父たちよりもよく理解している。私たちは
過去どの時代に生きた世代の人々よりもまさってナザレのイエスを理解している。偉大な人物
は山に似ていて、あなたがたはそのふもとに立っているときはそれを十分に認識することがで
きない。数マイル離れてあなたがたがそれに視線をむけるなら、そのやまの両側のすその均
整を捉え、その偉大さに威容を感じることができる。イエスもまたそうである。これから続いて
起こる世代は、更によく彼を理解するであろう。彼はあまりにも偉大であったのでパレスチナの
人々は彼を推し量ることができなかった。私たちは遙かによく彼が如何に偉大であるかを判断
できる。なぜなら私たちは、この19世紀間に渡って彼が投じた彼の栄光の長い影を見ること
ができ、彼の心の泉から流れ出た膨大な流れを測ることができるからである。もしもあなたが
たがイエスの時代に生きたいと望むなら、あなたがたは大きな間違いであることを欲している
のである。もしもあなたがたが1世紀に生きたならば、恐らくイエスを見た人々がイエスについ
て何も見いだすことが出来ず平和の攪乱者であると思ったのと同様になるであろう。恐らく「あ
いつを十字架につけろ!」と叫んだ群衆に加わっていたことであろう。
 1900年の距離からイエスを見ようではないか。あなたがたが彼を思い描くとき、あなたがた
の前にどんな顔の方が立っているであろうか?それはあなたがたが最も慣れ親しんだ絵画に
依存することであろう。あるいは教師達から受け取ったものや、あなたがた自身が空想したり
思い描いたりしたものに依存することであろう。出会ったことのない人物のイメージを、私たち
は単純に彼の名前に関心を持つことによって本能的に形作り始める。あなたがたは皆それを
繰り返し行っている。幾人かの偉大な人物のあるひとの名声があなたがたの耳に届いたとしよ
う。するとあなたがたの思いが働いてその人がどんな人物であるか一度に考え出すのである。
後になって、あなたがたは彼を実際に見てこういうであろう。「私が抱いていたイメージとは全く
違っていた。」と。それ故、恐らく、画家たちによって誤った方向に導かれ、教師たちに惑わさ
れ、あなたがた自身のイメージに彷徨ったのである。そのようなイメージは捨て、ユダヤとガリ
ラヤでイエスに触れ彼と会った人々のようにイエスを見ることを試みるのがよい。彼らはイエス
の声を聞き、イエスの目の光を見、彼の顔の印象を捉えた・・・それ故彼らはイエスが真にどん
な人物であったかということについての最善の証人たちであり、私たちはイエス自身が語った
ことは何一つ聞いていないのだから、私たちはそれらの人々にイエスが与えた印象に単純に
注意を払うべきなのである。イエスは世捨て人でも修道士でもなかった。彼は人々の生活に密
着した生活をされた。そしてそれ故に彼の時代の人々に彼が与えた印象を見つけることので
きる豊かな素材を私たちは持っているのである。
 イエスが彼と同世代の人々に与えた最初の印象は何であっただろうか?イエスがあなたが
たに与えている最初の印象は何であっただろうか?彼はあなたがたに沈んだ、不甲斐ない、
静かで、弱々しいといった印象を与えているだろうか? あなたがたは多くの画家たちが描い
た、青ざめた死人のような、病気でやせ細ったイエスをいつも見てきたのではないか?彼につ
いて考える時、あなたがたは細くやせ細った、弱く活気のない誰かを考えているのだろうか? 
彼の日の人々に彼はそのようには見えなかった。マルコの福音書を開きなさい。最初の章に
すぐさまイエスが彼らの上に与えた四つの異なった印象が語られている。あなたがたに語られ
ている最初の印象はイエスがバプテスマのヨハネに与えた印象である。バプテスマのヨハネは
力ある人物であった。ユダヤには彼よりも力ある人物は現れたことがなかった。しかし、そのヨ
ハネは私よりも力あるお方が来られると言った。イエスがヨハネのもとにバプテスマを受けに来
たとき、驚くべきことが起こった。ヨハネは人々を悔い改めに導いた。彼は当時の最も偉い人
物たちにもたじろぐことなく相対した。彼は大きいものにも小さいものにも、身分の高い人にも
低い人にも、富む人にも貧しい人にも学のある人々にも無学の人々にもバプテスマを授けた。
しかしナザレからこの人が現れた時、ヨハネはためらい、身を引いてこういった。「私はあなた
に洗礼を授けることはできません。私の方があなたからバプテスマを授けていただく必要があ
ります。」荒野からの恐れを知らぬ先駆者にイエスが与えた印象はそのようなものであった。
 他の図を取り上げてみよう。ある日彼はガリラヤ湖の海岸をあるいていた。そして二人の男
が漁をしているのを見た。彼は言った。「私に従ってきなさい。」すると彼らはただちに網をすて
てイエスに従った。数歩離れたところに他の二人の男がいた。イエスは彼らにも「私に従ってき
なさい。」といった。すると彼らもすべてを捨ててイエスに従った。イエスが彼らに与えた印象は
そのようなものであった。イエスが会堂に入られて教えはじめられると、彼らは驚いた。彼が語
ったことばにではなく、彼のそれを語る態度に対してである。イエスは学者のようにではなく、権
威あるものとして彼らを教えられた。彼の声のうちには心をうがち、切り裂き、スリルを感じさせ
る何かがある。そのトーンは彼らがいまだ聞いたことのなかったものであった。それは権威の
徴であり、力の徴である。更にもう一つの事例を取り上げよう。会堂に病気の人がいて、イエス
は彼を癒す。すると神が人にそのような力を与えたことの故に再び人々は驚かされるのであ
る。これらの四つの事例は、イエスの第一印象は権威、練達、力、統率力である。イエスは強
い人物であられた。私が思うのは、全福音書にそのことが教えられている。彼らは私たちにイ
エスの力の肖像を繰り返し語っている。
 イエスは彼のもとに人々を引きつけた。彼が行くところどこにおいても群衆によって取り囲ま
れた。彼が海岸に降りて行くと、あまりに多くの群衆がおり、彼を押して水に落とすほどであっ
たのでイエスはボートに乗られるのである。彼が岡の頂上に行かれるとただちに岡の周りは
人々で溢れるのである。イエスが荒野に行かれると、ただちに群衆は彼を取り囲むのである。
しばしば、彼は町なかにあえて入らないのである。その理由は、群衆のために彼が入る入口
が混乱するからである。彼が通るどの町でも彼の存在によってひっくり返るような騒ぎが起こる
のである。力の人だけが多くの人々を自分のもとに引きよせるのである。幅広く異なる階層の
人々が彼に引きつけられることは注目に値する。収税人も罪人も、多数の不潔な群衆も引き
つけられる一方、パレスチナの最高議会の議員であるニコデモも同様に彼に引きつけられる
のである。ローマの百人隊長もまた彼に引きつけられ、イエスにこう言うのである。「私はあな
たがお命じになることは実現すると知っております。私の家に一人の敵がおりますが、私は出
て行けと命令することが出来ません。あなたがおことばをくださるなら彼は離れるでしょう。」
 イエスは人々を自分のもとに引きよせただけでなく、いつも彼の近くに来た人々を感動させ
た。あなたがたは福音書の記者たちが、人々が「彼らは仰天した。」・・「非常な驚きをもって驚
いた。」・・「彼らは驚嘆に満たされた。」・・「彼らは不思議がった。」と云うのを何回記したかご
記憶であろうか。福音書の記者たちは彼ら自身にはそのようなことは決して言わなかった。マ
タイは決して「私は驚いた」と言わない。マルコは決して「私は驚嘆した」と言わない。ヨハネは
決して「私は不思議だ」とは言わない。彼らはすべて大理石の腕を持っているかの如く、またペ
ンを握る指先に自分の感覚を入れず、ただ単純に他の人々にイエスが与えた影響を冷静に
書いたのである。恐らくそのような異なった階級の人々がイエスにくだした評価ほどイエスの力
を示す証拠はないであろう。
 ある日イエスが「人々は私のことを何といっているか?」という質問をされたとき、弟子たちは
人々がイエスについて異なる意見をもっていることを述べた。ある人々はバプテスマのヨハネ
だと言い、あるものはエリヤだといい、また他のものはエレミヤだといい、一方あるひとびとは
はっきりとした名前はわからないけれども昔の預言者の一人だと感じるという。これは注目に
値する。彼らはイエスになぞらえることのできる人物を見いだすために墓にいった。その時、生
きている人物には彼と比較できる人は誰もいなかった。私たちも同じことをする。私たちは
人々の心を揺り動かそうとするとき、死んだ人々を強調する。私たちが偉大な人物を捜すと
き、墓にくだっていく。私たちはシェイクスピア、シーザー、アルフレッド大王、リンカーンやウェ
ブスターについて語る。私たちは生きている人物の名をあげようとしない。それがユダヤ人た
ちのしたことである。彼らがイエスに備わっていると感じた強さの程度を十分に示すことのでき
る生きた人物の名はなかったのである。彼は死者たちのうちにしばしとどまり、その力を増して
地上に戻った昔の時代の巨人たちの一人であった。
 このことは私たちにイエスは恐るべき力の持ち主であることを明確に語っている。もしユダヤ
人たちがイエスに関してそのように感じたなら、ローマ人の役人たちにイエスはどのような印象
をあたえたであろうか?イエスは同様の方法で彼らに印象を与えた。衛兵たちが彼を捕縛する
ために来て本当にナザレのイエスであるか尋ねたとき、彼は彼らを振り返って単純にいった。
「わたしがそれである。」そうしたら、彼らは後ずさりして地に倒れた。彼の両の目をあなたがた
はどのように想像するであろうか、ローマ人のたいまつの明かりであろうか、シリアの星であろ
うか?ピラトは彼を恐れた。彼はパレスチナに対する皇帝の代務者であった。彼は権威の衣を
身にまとっていた。イエスは何もないただの非武装の農民であった。それにもかかわらず、ピラ
トはイエスを恐れた。彼はイエスから身を引いた。彼はためらい、もみ手をし、手を洗った。そし
てこの人物を釈放しようとした。彼はこれまでに彼が出会ったいかなる人物とも異なる力をイエ
スが持っていることを感じた。
 しかしもしあなたがたが彼の力の最も素晴らしい証明を得たいならば、イエスが感激して喜
ばれた強烈な愛、あるいはその逆の強烈な嫌悪の中に、あなたがたはそれを見いだすことが
できるであろう。いかに多くの人々が彼を嫌ったことか!彼らはかんかんに怒ることなくイエス
の話を聞くことができなかった。嫌悪の野次をとばし、燃えさかる炎に掛けられたポットのよう
に煮えくりかえった。イエスは心のなかに暴風を巻き起こし、人々のうちにある蛇を呼び覚まさ
せた。イエスは彼らを狂喜に追いやり、狂乱のうちに「そいつを十字架につけろ!」と叫びださ
せた。ただ偉大な人物のみそのようなことができるのである。みなさんは取るに足らない人、弱
い人、愚かな人々を嫌ったりはしない。みなさんはネロやナポレオンやいろいろな巨人たちを
嫌うことができる。しかし無きに等しい人を嫌うことはできない。この世紀中、英国で最も嫌わ
れた人物はだれであろうか?ウィリアム・E・グラッドストーンである。私たちアメリカではひどい
嫌悪についてちょっとした概念があるが、それはその人に注がれている。イエスが人々の嫌悪
をかき立てたのは、彼には非常に力があったからである。今日のアメリカで最も嫌われている
人物たちは誰か?嫌われている人物はいずれも非凡の力の人である。嫌われ恐れられる人
は天才であって、物事の処理に対する特殊な能力を持っている。
 イエスはある人々を嫌悪に追いやる一方、他の人々を彼への愛に駆り立てた。彼はこの世
でかつてない、超越した献身の炎を燃やさせた。彼はパレスチナ全土に走る火を燃やした。そ
してその火はそれから地中海沿岸に、更にドイツの森に、それからイギリス海峡を越え、やが
て大西洋を飛び越した。そしていまやすべての海を越え、現在の火はより輝いて燃えている。
そしてこの大いなる火はイエスの熱い心によって起こされたものであった。これらの燃えている
たいまつは、嵐に満ちた19世紀間を通して運ばれてきたものであって、それは決して消えるこ
とはない。なぜならイエスが彼らを照らすからである。この世にあったいかなる人物も受けたこ
との決してない王の称号で呼ばれた。
 彼は神であると人々が思ったほどに力ある人であった。彼の最も近くに立った人は彼が去っ
た後、幻のうちに彼を見て言った、「私は彼を見たとき、死んだ人のように彼の足下にひれ伏し
た。」



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