第二章  私たちの学びの理由

 「来て、見なさい。」 ・・・ヨハネ 1:46

 私は、私と一緒にイエスの品性を詳しく学ぶことに皆さんをお招きする。皆さん方の多くは、こ
れまで既に彼のことを他の人々の指導で学ばれたことであろうが、ちょっとの間、私につきあっ
て、彼をもう一度学ぼうではないか。イエスの品性と生涯について、再度学ぶ機は熟している。
私たちは困惑の日々にあり、今も戸惑っている。世界は何かを必要としているが、それが何で
あるか知ることはほとんどない。富は増した、しかし心は飢えている。知識は増した。しかし多く
の人々が謎と疑惑に陥っている。世界は人類の技巧と才能からでた発明品に満ちている、し
かし科学によっても技術によっても満たすことのできない巨大な空虚さがある。
 20世紀の生活の特徴のひとつは不満である。私たちのあるものは、自分自身に不満を抱い
ている。私たちには安息がなく、不満足で、当惑している。私たちは、自分は落後者であるとい
う意識を持っている。私たちはなすべき事に対して不足していると感じている。私たちの努力に
も拘わらず人生は貧弱で失望させるものである。多くのものを所有しながら私たちは叫ぶ、「私
にはまだ何が足らないのか?」それ故、今まで旅してきた道を離れ、しばらくの間ナザレのイエ
スに聞くことが賢いに違いない。彼はきっと私たちが探し求めているものの秘密を知っている
に違いない。
 新約聖書をひもとく時、私たちがまず直面するのは彼の顔であり、私たちを迎える挨拶の最
初のことばは彼の唇からでたものである。彼は言った、「わたしのところに来なさい。そうすれ
ばわたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは世の光です。もし誰かが渇いているなら
その人を私のところに来させ、飲ませなさい。わたしの平安をわたしはあなたがたに与えます。
あなたがたは力を受けなければならない。あなたがたは喜びます。」パンと水、光と休息と平安
と力と喜び、これらは人生を完全なものにする7つの基本的な祝福ではないのか?このお方
が、魂が最も必要としているこれらのものを私たちに与えると約束したのであるから、彼の手
段を学び、できることなら、彼が提供している賜物をもっとも早く得る方法を見いだすことは価
値あることである。彼に近づく道で彼がこう言うのが聞こえる。
「わたしに従え!
わたしに学べ!
わたしを食べよ!
わたしの内に住め!」
 彼は私たちが「彼のように」なるという条件の下で、私たちにすべてのよいものを与えている
ように思われる。しかし「彼のように」とは何か?彼の気質、気性、態度、性質とはいったい何
であろうか?自分自身に飽き足らない人は誰でも確かにイエスの品性を学ぶことを欲するであ
ろう。自分よりもむしろ世の中に対して不満を持っている人々もいる。時間は脱臼しているよう
であって、誰一人それを直せるほど賢くも強くもないため私たちは心を悩ますのである。政府
は腐敗しているし、教会は死んでしまったか死につつあるみたいである。家庭は破壊と醜聞に
満ち、社会は燃えている。経済システムは重荷とのろいであり、凡ての世の中の枠組みは造り
直すことを必要としている。そして、悲しいかな、だれがその困難な仕事に十分であるのか?
万能薬を持っている人々は声高に物を言い、自信たっぷりであり、改革を叫ぶ預言者は喧しく
何処にでもいるが、不幸なことに彼らは互いに一致できず、彼らの救済策はそれを試す人を
癒すに無力である。彼らの医薬品は十分な力を持たない、そして医者は熱に浮かされている
人の傍らに、なすすべもなく、信用もされず、押し黙って立っている。近代文明はバベルの塔と
なった。社会の改善の理論と産業再構築のプログラムの雰囲気に満ちているが、最も聡明な
頭脳の持ち主もどの方向に救いを見いだすことができるか分からず、ただ騒音と喧噪によって
困惑させられている。
 私たちが私たちの新約聖書を開くとき、彼は多くの変革をもたらした専門の革命家たちのよ
うでもなければ、繰り返し世の中を掻き回した平和をかき乱す人々でもないけれども、そこに私
たちは私たちをじっと見つめているひとりの人を見いだす。彼は急進主義者には数えられな
い。なぜなら彼の急進性は彼等のすべてに当てはまらないからである。彼は愚かなものによっ
て賢い者に反駁し、弱いものによって強い者を倒されて、すべての人の基準をひっくり返すこと
をあえてした。彼には権威と権力について言うべきことがたくさんあった。そしてすべてのもの
を新しくすることができることが彼の主張であった。歴史家は、彼がローマ帝国を転覆させ、ヨ
ーロッパとアメリカはそれまで世に知られていたものとは全く異なる文明を彼から与えられたこ
とを認めた。
 もしも、彼の思想がその内にダイナマイトの力を有し、彼の人格が帝国の国々の政策や人々
の気質さえも変えさせる力を持っているなら、きっとこの人こそ現代の世界がその悲惨と悲し
みから救済する道として熱望し、探し求めている人物であるに違いない。確かにこれらはその
とおり世の疾病であって、もっとよい世が来ることを熱望しているすべての人々は、もし彼等が
賢明であるなら、ナザレのイエスの、悪の源を引き倒し、地に正義と平和を打ち立てる力の秘
密を得るために、彼のもとに来なければならないのである。
 私たちが彼の方法を学ぶとき、私たちは彼の最大の関心事は個人の心の正しさにあること
を発見する。この帝国を崩壊させた人物は、個々の人々の変革を彼の仕事とした。この偉大
な革命家は、個々の魂に彼の火を燃やすことから始めた。彼は一人の人を彼のもとにひきよ
せ、新しい霊を彼に吹き込み、その人に続くその人の兄弟に対して送り込み、その彼の兄弟
は第三の人のところに行き、第三の人は第四の人のところに行き、こうして皇帝をその玉座か
ら引きずり落す手だてとなるくさりを結ぶのである。見たところ奇妙であるが、彼は伝統につい
て何も語らず、さらに奇妙なことに彼は環境についてもまったく語らない。彼は環境を変え、世
代を通して続く流れをも変える手段として、彼は彼の目を魂の上に向けるのである。私たちが
環境について語るとき、私たちは道路の舗装、下水道、建物の造り、部屋の照明など、私たち
の周囲にある物質的なものを考える。私たちはよりよい下水道、よりよい換気、よりよい照明
が、人々が罹る疾病を急速に減少させることを知っている。しかしこのナザレの改革者はただ
人の思いと心について以外、環境についてひとかけらも語ろうとしない。人がいまある姿に造ら
れたのは、舗装や住居によってではなく、そのひとが一緒に生きてきた人々によるのである。
もしあなた方が環境を変えようと思ったなら、人を変革することから始めなければならない。そ
して人を変えようと思ったなら、幾人かの特別な人を変革するところから始めなければならな
い。一人の人の品性が変わることによって他の人の品性が変わり、多くの人々の品性が変わ
ることによって帝国と文明全体が変わるのである。イエスが「見よ。私はすべてのものを新しく
する」と言われたとき、彼はひとりの人の心に彼の手を置いているのである。人類を引き裂く悪
霊の進軍は人の心の中から出てくるのであり、天国の美と平和を回復させる天使もそこからや
って来るのである。であるから、ここに古い世を変化させるイエスご自身の秘密がある。彼は
彼自身に似た品性を個々の人間に与えることによって黄金時代に導こうとされる。彼の品性は
皇帝の悪霊たちや諸大学の最高の賢者たちにまさる力の形である。この世に対してもっとも不
満を抱き、最も熱心にその圧政と悪弊を廃止しようとしている私たちにとって、イエスの品性を
学ぶことに私たちの昼と夜を用いることは有益である。なぜならこれを通して重荷を負わされ
ている世が輝かしい日に進むからである。多くの小うるさく耳障りな働き人、多くのけばけばし
い大物リーダーがおり、改革者はしばしばもっともらしく威勢がよく、革命家は世を新しくする計
画を私たちに印象づける。しかし、結局世の救いのためには折りを得ても得なくても、身分が
高くても低くてもイエスの品性を彼らの生涯を通して私たちに示す男あるいは女に勝る効果の
ある働き人はひとりもいない。祈りと日々の努力によって、その心と霊にガリラヤの人の徳と恵
を熱心に建て上げる男あるいは女のように速やかに黄金時代に向けた前進をさせるものはい
ない。
 それ故ここに私たちはキリスト者聖職の至上の使命を見いだすのである。それは人々がイエ
スの品性を愛するよう助けることである。聖書はイエスの肖像を含んでいるが故に計り知れな
い価値がある。新約聖書は旧約聖書に遙かに勝る。それは新約聖書に私たちはイエスのみ
顔を見るからである。新約聖書の至聖所は福音書である。なぜならここにおいて私たちは直接
イエスの目をもって物事を見ることができるからである。私たちはしばしば福音について、「こ
れは何か?」という。それはイエスである。いま私たちはもう少し近寄り、問おうではないか。
「イエスの中の何が私たちの学びに最も価値があるのか?」彼の地上生涯の枠組みとなった
環境にも多大な関心が払われている。多くの人々が年代学や地理について調べ、他の人々は
外套やターバンや履物に興味を抱く。写真家たちはイエスが見たであろうすべての光景、イエ
スの事業、経歴に関わるすべての場面を写真に撮影した。画家たちはパレスチナの野と湖と
空をキャンバスに写し取り、映像による講義は聖地を地上で最も馴染みの深いところとする。
様々な種類の記者がかの地の習慣、住居、服装、祭りに関する記述を世に氾濫させている
が、そのような大量の覆いやカーテンの中で、私たちはイエスその人を見失う危険がある。
 イエスの生涯の外側の罠に多くの時間が浪費されたが、彼の思いと心に関する熱心な研究
をした方がよかったのである。パレスチナはイエスがどのようなお方であり、何を為されたかを
私たちが理解する助けとなるもの以外は何の興味もない。その一時的、局地的な事柄に興味
があるかもしれないが重要ではない。独一で終わりのない重要性をもっているのはイエスの品
性であり、それ故すべての真摯な心情はこのことに向かうべきである。写真はその人の魂の
中に一層深く私たちを連れて行くのでなかったら何の価値もない。私たちがイエスを学ぶの
に、取り扱かわなければならない材料の貧弱さに驚く。新約聖書の記者たちはそれらに僅かな
興味も抱かなかった。彼らはイエスの容姿、彼が着ている着物、彼の住んでいる住居には何
の注意も払わなかった。彼には伝記作家が普通多くの章に渡って詳述する事柄をなにも持っ
ていなかった。彼には誇るべき家系が無かった。彼の友はみな卑しい人たちであった。彼は教
会の中や政府の中になんの公職をも持たなかった。彼は富の威信も学問の誉れも持たなかっ
た。彼は家畜小屋で生まれ、大工の店で働き、3年間教えた後、十字架に死んだ。外側のこと
は最も低く、環境は平凡で貧弱なものであり、彼の生涯の枠組みは狭く飾り気のないものだっ
た。
 新約聖書はその「人」そのものに私たちの目を固く向けさせようと決意した人々によって書か
れた。彼らはイエスの心臓の鼓動、彼の心の揺れ動き、彼の思想の軌跡を私たちが捉えるこ
とを望んだ。イエスの魂の感触、彼の人格の姿こそが中心的かつ重要なことなのであって、そ
れ以外のすべてのことは小さく従属的なものである。彼らは口をそろえて叫ぶ、「この人を見
よ!」彼らはイエスがどのように物事を見、それをどのように感じ、その物事がどのようにイエ
スに影響したかを私たちに知らせたかった。一言で言えば、彼らはイエスの品性を私たちに知
らせたかったのである。彼らの招きに同意し、イエスのもとに行き、そして彼を見ようではない
か。私たちのうちのある人々はこの人イエスについて何年間も学んだ。イエスについて再び学
ぶことが私たちの切なる願いである。年が経つにつれて見る目は常に変わり、心は広がる。研
究と経験を通して私たちはより高い知識の水準に登る。この人の学びが私たちを楽しませなく
なる時は決してやってこない。
 彼は神への道である。その道に熟知しすぎるなどということは不可能である。彼は父なる神
のご人格の姿の顕れである。彼を学べば学ぶほど神のみ心に関する私たちの知識が豊かに
なる。彼はみ父を宣べ伝えられた。彼をより十分に理解すると私たちは至高者の心をより深く
悟ることができる。彼と父が一つであるなら、彼を知ることは文字通り永遠の命である。彼が信
仰の創始者であり完成者であるなら、私たちが私たちの前に置かれた競争を、忍耐をもって
走るために、私たちは彼の顔を曇り無く見る必要がある。もし私たちがイエスの品性を見るこ
とによって彼の品性から品性へと変化していくのであるなら、私たちが潔く美しい品性を私たち
の心に作り出すために過ごす凡ての時間は祝福されている。主に愛された弟子はしばしばこう
言った、「私たちは彼の栄光を見た。」と。イエスが業をなされ、話され、歌われ、祈られる時、
彼らはイエスを見つめイエスが新しい態度と大きさに高められるのを見て記憶した。成熟し経
験を積んだキリスト者たちは「来て、見よ。」という招きに対する備えと同意をもっている。私た
ちのある者は、この肖像からほんの僅かしか学ばなかった。彼らは、「イエスは陰気な非現実
的な人としてのみ彼の名をとどめた。彼の顔は卑しめられた。私たちの心はイエスの力を感じ
ない。私たちはイエスに関心がないわけではないが、イエスへの忠誠に対するするどい感覚を
持ち合わせていないし、崇敬の意識は鈍化されて存在しない。」という。私たちは新に彼を研究
する必要がある。もし私たちが彼について学び始めるなら彼は絵の中から出てこられて私たち
の傍らに座られるかも知れない。私たちが彼を仲間として知るまで、彼が私たちに与えようとし
たものを彼から受け取ることができない。なぜなら彼の顔ははっきりしないため、私たちはしば
しば落ち込み打ち負かされるからである。私たちは彼の目の光りを十分に捉え、彼の征服され
ることのない心の鼓動を強く感じないうちは、人生の困難な場所に気がくじけるのである。私た
ちのうちのある者は教義に化石のようにされているかも知れない。
 イエスが初めて人間として立たれたその日は魂にとって偉大な日である。彼が私にとって人
間となられた最初の時を私は決して忘れることができない。偉大な教師が「父よ。この時から
私をお救い下さい。」ということばを言ったのは土曜日の夕方であった。その瞬間私にとってイ
エスが近寄りがたい大きさから縮んで小さくなり私の心の泉が開かれた。私たちのある者は彼
について全く学んでいない。私たちの知っているすべては風聞である。私たちはこのナザレの
イエスに偏見を持っている。彼の顔は他の人の誤った表現によって、あるいは私たち自身のく
せによって部分的にねじ曲げられている。この学びの間に私たちのある者は、イエスのはじめ
の姿どおりに彼を見ることができるであろう。形而上学を好まない人々がいる。彼らを招き彼
の姿全体を見せよう。教理に無関心の人々に、イエスの生涯を学ばせよう。教義に興味を持
たない人々に、彼の人物を凝視させよう。もし彼等が「啓示」ということばに神秘的で教理の響
きを感じるなら、最大の啓示・・一人の人の品性によって形成される啓示・・を黙想させよ。
 私たちは福音の姿がどのようにしてここに到達したかという疑問を論ずべきではない。私た
ちの現在の目的にはそれがここにあるということを知っているだけで十分である。世界でこの1
900年間、その期間のあいだにそれには何も付け加えられなかったし、なにも取り去られるこ
とはなかった。誰かが働き人の小さな欠点に注意を払ったとしても、福音は十分にその働きを
すると言える。福音は神への信仰を養う。それは祭壇の上に燃える希望と喜びの炎を保つ。
人は福音の姿に関する様々な理論を持ち、批評をまき散らすが、世は福音に支配されてい
る。私はあなたがたにそれに目を留めることを促したい。それを見ている人々もいる。彼等は
地球上のいたるところで見ている。数百万の人々がそれを見ていてこう感じる。彼らは永遠者
の心情と目的の最大の発見を得たと。この福音の姿が多くの人々の心を神により近くひきよ
せたことは議論の余地がない。それはきっとあなたをも引き寄せる。ただそれを見るだけで。
他の物事は過ぎ去るが、この福音の姿は内にある現実でありつづける。数々の宝がるつぼの
中で溶けてしまったが、これは違う。数多くの団体の中で聖書は小さくなっていき、教会もまた
縮小したが、世界中広く至る所でイエスの品性は考え深い人々の目により大きく映ってきた。
それを見ることによって、あなたがたにも同様に大きくなるであろう。そして私もまたあなたがた
が見ている間に祈ることをお勧めする。あなたがた心情と心に見る深さは、あなたがたがそれ
を熟考することによってあなたがたにもたらされるものにかかっている。
 あなたがたの中に音楽がなかったら音楽家の力作もあなたがたは評価できないし、芸術家
のもっている感性をあなたがたが持ち合わせていなかったなら、あなたがたは芸術家の絵画
を評価できない。それに似て、あなたがたの存在に深い意識と願望がなかったなら、あなたが
たはイエスの品性を理解できないであろう。音楽、芸術、そして人生の師匠たちは、幾分かな
りとも彼らとその精神を分かつことのできる人々にのみ、自分を顕す。もし皆さんがイエスの品
性を学ぶなら大きな益になるであろう。それは皆さんがイエスの生涯の最も重要な点に対して
応答することになるからである。彼は卓越した祈りの人であられた。彼の祈りは敬虔の心であ
り彼の視線は常に上を向いていた。イエスの生きられた息づかいと雰囲気、イエスのとられた
態度をもって祈る人は、それによって彼らがイエスの業と語られたこととを理解するのに最も適
している。ある人物を学ぶには、霊的な調和がすべてである。
 ヤコブはイエスと同じ屋根の下で生活したが彼を理解できなかった。パウロはイエスから遙
かに離れたところに住んでいたがイエスを完全に理解した。魂を理解することは物理的な近さ
や知的な努力に関する事柄ではない。すべては洞察力と霊的な共感にかかっている。イエス
の学びには常に失望せず祈ることを必要とする。





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