第一章  緒 言

 「見ろ。この男だ。」・・・ヨハネ 19:5

 これから毎日曜日の夕方、私たちは一緒にイエスの品性について考察しようではないか。皆
さんは、この主題には限度があることに気づくであろう。単にイエスでは、この講義のコースで
取り扱うにはあまりにも大きすぎる論題である。例えば、イエスの思想、すなわち彼が説教の
中で明らかにされたり、寓話の中に描かれたりした原理がある。これは大きな分野であって魅
力があるが、現時点では私たちはその中に歩を進めない。イエスの教義、すなわち神と魂、命
と死、義務と摂理に関して彼が教えられたこと、これもまた同様に裾野の広がっている価値あ
る分野であるが、それにも私たちは踏み込むことができない。イエスの人格を考え、彼と父な
る神との関係、聖霊との関係、私たちとの関係、彼の人格の計り知れない神秘を熟考すること
 ・・・ これこそが考え深い心を持つ人々が愛してやまなかったものである。しかしこの広大な
思考の分野についても、同様に私たちは背を向けるのである。その理由は、私たちがイエスの
品性に私たち自身を専念させるためである。
 「品性」ということばによって、私が意味するものは、他の人々と区別されるイエスの特質の
総括である。ここに私が述べている彼の品性とは、彼の特質、彼の道徳面の特徴、彼の精神
と心と魂の姿の総計である。私たちは彼の属性、彼の気質、彼の才能の徴、彼の精神の特
色、彼の行動の姿について考えよう。ある意味で、私たちの学びは初歩的なものである。
私たちはキリスト者の学びのABCを取り扱っている。このことは、キリスト教の学びに踏みいる
すべての熱心な研究に関する合理的な開始点である。私たちはイエスの思想を正しく聞き取る
準備に、イエスとはどんなお方であるか知るべきである。ある人が語ることの重要性は、彼が
どんな人物であるかに大いに依存している。二人の人が全く同一のことを述べることができる
であろう。しかし、そのうちの一人が愚かであったなら、その人のことばは私たちに何の印象も
与えないが、もう一方の人が賢くよい人物であったなら、私たちは彼に近づき共感を持って注
意を払うであろう。
 人がもしまずイエスの品性に精通したなら、イエスの思想を正しく理解することができる。イエ
スの品性から始めることは研究の科学的手法に適っている。今日の科学者たちは現象の研
究を強調する。彼が求めるものは、彼が結論を引き出しうるデータである。確実で具体的な事
実を得ずに論文に着手する科学者はいない。キリスト教はなにか非常に漠然としたものだとい
う意見が一般に広まっている。それは曖昧でつかみどころがなく、曇り、不確かであり、朝日が
その上で照っている霧のように、なにか美しいものではあるが人間が生きている地上から遙か
高いところに存在する薄い霧のようにである。
 しかしこの講義のコースでは、私はあなたがたに幻影、概念、原理、あるいは関係について
考えることを求めない。私はいくつかの確定した明確な事実に関してあなたがたに注意を払っ
て貰いたいのである。このお方イエスは、ひとりの歴史上の人物である。彼は彼の人生をこの
地上で生きられた。ゆりかごから墓場までゆかれたその中に、彼は確かにご自身の特色と気
質を顕されたが、それこそが私たちのこの研究の目的である。もし私たちが、彼が語られたこ
と全てを取り扱おうとしたなら、私たちはそれらの多くが理解出来ないことを見いだすであろう
し、もし私たちが彼の人格を把握しようと試みるなら、私たちは推し量るにはあまりにも深い神
秘に直面することを見いだすであろう。しかし彼の品性を取り扱おうとするなら、私たちは具体
的で理解できるものを取り扱うことになるであろう。私たちは彼の前に自分を置こうではない
か。そして彼が私たちに印象づけようと思われたものに私たちの心を向けることにしよう。これ
は科学的な方法だというだけでなく、新約聖書の方法でもある。
これこそが、弟子たちがイエスを知るためにとった方法である。弟子たちは彼の人格の神秘か
ら始めなかったし、それどころか彼らは彼らが聞いた理解しがたいイエスの語ることからも始
めなかった。彼らは単純にイエスに近づき、彼らの目で彼を見ること、彼らの耳で彼に聞くこと
から始めた。
 主の愛された弟子は「私たちは私たちの手で彼に触った。」と、勝利の叫びとともに彼の最初
の手紙に記した。イエスは彼の品性に関する知識によって、人々が彼が世にお与えになった
真理に来ることを望まれたということを、新約聖書から読み取ることができる。
 かの日、ヨルダン川の岸辺で二人の若者がイエスについていった時、イエスは彼らの方を振
り向いて言われた。「あなたがたは誰をさがしているのですか?」それで彼らは答えた。
「あなたはどこにおられるのですか?」イエスの答えは「来て、見てごらんなさい」であった。彼ら
はその日、その後ずっと、イエスと共に過ごした。そして彼等のイエスとの最初の出会いの結
果は、彼らが彼らの仲間たちにもイエスに会いに来させようと思ったことであった。その日以来
このこと、すなわち単純に彼を見た人がほかの人もイエスに会い、彼らと同じ経験に導かれる
ことを望んだということが、キリスト教が世界に広まる原因となった。
 もしこのことが1世紀においてキリスト教に近づく手段であったなら、どうして私たちの時代に
おいてもそれに近づく最善の手段でないと言えるだろうか?キリスト教はその発展の段階で、
いろいろな形をとってきたし、多数の不必要なものもその中に取り込んだ。その結果、幾千も
の人が惑わされ、何を考え何をなすべきかを知らない。教会の権威という門から入ろうと試み
たことが原因で、多くの人がキリスト教に躓いた。彼等はつじつまの合わない、あるいは偽善
のキリスト者の告白を通してイエスの宗教にやってきた。それは彼らにとって、単純に彼の人
生をキリストから引き離すに十分な、非常に哀れな経験となった。しばしばそれは個々のキリ
スト者だけではなく、地方教会全体を誤りに導いた。それは教会を死に至らせ、指導者を堕落
させ、説教者を無知にさせてキリスト教の精神あるいはキリスト者の風貌を失わせることであろ
う。そのような場合の教会の全体的な印象は惨めであり、魂に受け入れられないのである。
 今日多くの非キリスト者がいるが、それぞれ個々の不幸は、彼らの人生の大切な時期に、キ
リスト者の愛と敬虔の不足している教会に接したことに起因しているのである。キリスト教に教
理の門から入ろうとした他の人々もいる。彼らはキリスト教の教会の教理の条文から入ろうとし
たが、それらの教理は教会会議や神学者によって公式化された教理であって、その結果彼ら
は入っていくことができなかったのである。彼らの考えは拒絶され、彼らの心は冷え込んだ。
 私は他の門があることを示したい。それはイエスの品性である。キリスト者の告白も、教理の
条文もキリスト教の門ではない。キリスト教の創始者は言った、「私がその門である。」
集会の中のある人は、キリスト者の告白をあざけるか、あるいは教会の信条に懐疑的である
かも知れないが、彼がイエスの品性を学んだならもはや皮肉屋でも懐疑屋でもなくなるに相違
ない。
 とどのつまり、キリスト者になるということは、キリスト者であることを告白している他の人のよ
うになることでもなく、教会の教義を受け入れることでもない。キリスト者になるということは、イ
エスにあこがれ、真摯に、熱心にイエスのようになることを願望してその生涯をそれに費やす
者になることである。
 今はイエスの品性を学ぶ好機である。なぜなら私たちの時代と世代には、世界中の目によっ
てイエスの新たな栄光が明らかにされたからである。現在生きている私たちは、もし望むなら、
使徒の時代から今にいたる人々が知り得たことに勝ってよりよく彼を知ることができる。
 最近の70年間に三つのすこぶる大きな業績がなされた。そのうちの二つは誰でよく知ってい
るものであって、第三のものは比較的少数の人々が認識している。過去70年間における第一
の大きな完成物は、自然科学の殿堂の構築である。この偉大な事業は、預言者たちの英雄的
行為と使徒たちの熱意をもってそこに身を投じた天才たちによって実行された。
70年間に打ち立てられたのである。なんと光栄があり、なんとまばゆいことであろう。私はそ
れらが全世界の目を捉えているのであえてそれについて述べる必要を感じない。この70年間
の第二の偉大な業績は、物質文明の発展である。これらの期間に、蒸気船、電信電話、およ
び数千の発明がなされ、全世界の様相は変わり、人々の生活に大変革をもたらした。
これらは、それらを知るものにとって驚異である。
 しかし、さらにすばらしく遙か先まで到達する第三の業績があり、その効果は他の二つを凌ぐ
ものである。それは海をまたいだ両側の大陸の学徒の偉大な部隊によってなされたもので、ナ
ザレのイエスを隠されている闇と雲の中から引き出し、世界の前にもう一度提示したことであ
る。ストラウスが「イエスに関する小著(イエス伝)」の初版を出版したのは1835年のことだっ
たが、それ以来今日に至るまで、世界はこのガリラヤの人の品性に関して研究し続けた。それ
は一貫してより深く掘り下げられ、熱心をもってなされ、決して衰退することはなかった。
 福音書は他の著作とは比べものにならないほど綿密な調査の対象とされた。写本さがしのた
め、図書館も塚も墓もくまなく捜索された。写本が取り集められ、互いに比較され、最小の差違
も記録され熟考された。すべての文節が取り上げられ、すべての文がその重みを量られ、す
べての単語が解析されすべての音節は試験され十字架は疑問視された。この70年間に新約
聖書の上に注がれた労力は驚くべきもので、計算できない程膨大であった。人々は写本の学
びだけでは満足せず、イエスが居住した土地について研究し、北から南から東から西まで測り
縄をもって測定した。彼らは丘や山の高さ、川や海の深さを測った。彼等はかの地を聖となら
しめた人物を、少しでもよりよく知りうる材料を得ようとして、つるはしとシャベルをもって、地の
中まで降りていった。歴史が始まってからのどの世紀にも勝って、紀元第1世紀が研究され
た。人々の習慣、衣服、住居、彼等のすべての社会的なあるいは政治上のあるいは教会生活
の姿、彼等が読んだすべてのもの、彼等のすべての会話は、それが人をイエスに近づけるか
も知れないという希望によって、解析され、論じられ、注釈され、描かれ、写真に撮影され、放
送によって広くまき散らされた。パレスチナの紀元1世紀の文明は、知られている他のいかな
る文明にも勝って、精査され解析される対象となった。イエスの生涯と時の両面に関し、大西
洋の両側で印刷された出版物は、洪水のように世に溢れた。その結果彼は世界中の目の前
に大いなるものとして現された。
 今や、教会の中で単純に彼を見るだけでなく、すべての人々が彼を見ることができるようにな
った。彼は教会の領域を出、すべての都市、すべての地を歩かれるようになった。すべての種
類、すべての条件の人々が彼を賞賛するようになった。教会を軽蔑する人々も彼を尊敬し、キ
リスト教の教理を否定する人々も彼に従った。讃美歌にも説教にも関心のない教会に属さない
多くの人々も、彼の名を記憶し喝采するのである。彼等の多くは彼をぼんやりと見、彼の顔も
彼の心もちらっと捉えるだけであるが、誰でも彼が善き業を行った人物であることを知ってい
る。彼の名はどこででも尊敬されている。彼の心情の領域をよりよく理解し、彼の心に届くこと
を私たちが熱望することは、新しい世紀の幕開けの年に相応しい。
 私たちはどうしたら私たちの望む情報を得られるであろうか?それを通して光が射し込む6
つの通路がある。私たちは、彼が語ったことば、彼のなした行い、また同様に彼の沈黙を通し
て彼を知ることができる。第一に彼が彼の友たちに、また第二に彼の敵たちに、第三に彼の時
代の為政者たちに与えた印象によっても、同様に私たちは彼を知ることができる。 だれも数
えることが出来ない多くの人々がイエスの品性を研究したことを思うとき、私は畏れを覚えるの
であるが、皆さん自身も彼等に加わることをお勧めする。
 この1900年間を思いめぐらすがよい。そして彼の前に立ち、彼に新しい美の啓示を受けた
画家たちを考えよ。彼の前に立って彼らの詩に新しい霊感をとらえた詩人たちを考えよ。彼の
前に立った音楽家たちを考えよ。彼は彼等の心をもたげ、夢あるものとした調べの作品を仕
上げるための印象を与えたのである。彼の前に立った哲学者たちを考えよ。彼等は彼のくち
びるからでた表現によって偉大な思想を熟考することができたのである。記されていない男と
女、無学の民衆、普通の職に就いている人々について考えよ。天使の歌声を聞いた羊飼いた
ちの末裔が彼を礼拝し、疲れた時に休みを、弱っている時に力を彼のうちに見いだしたのであ
る。そしてそれから、これから続く世紀に生まれてくる数え切れない世代の男と女に心を馳せて
みよ。彼らはこの比類のない人物の前に立ち続け、いのちの霊感を飲み、彼らの人生を生
き、彼らの業を行うのである。もしあなたがたがこの大行列と、そしてこれに続くさらに大なる行
列を思い描くことができるなら、いま一度あなたがたのうちの敬虔の霊をもって、私たちが心か
ら「主よ!」と叫び出さざるを得ない人物の品性の研究をするとき、あなたがたもその行列に身
をおくのである。


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