結実  

ホームページ掲載に当たって



 本書を仙台聖泉キリスト教会の聖別会のテキストとして、読んでいただき感謝しました。
 また引き続き、教会学校成人科のテキストとして、再度講義させていただき再考の機会を与
えられ感謝しています。
 これらの機会を得て、考えさせられましたことは、本書に記した私の真意を理解していただく
には、いくつかの点で注釈をする必要があるということでした。このホームページに掲載するに
当たって、気づいた点をあらかじめご説明いたします。これを読まれて私の真意をご理解の
上、本文を読んでいただきたいと思います。


本書の提起している内容について
「結論」として強調すべきことですが、結語には「まとめ」の内容しか記しませんでした。
それで少し触れますが、救い、潔めの次の恵みはないのか?ルター、ウェスレーで神が備えら
れた救いの道は完結したのか?という点に踏み込んでいます。そして、従来の研究ではウェス
レーの域を越えたものはないので、ウェスレーの次にくるものはこれであるということを提唱し
ています。
「きよめ」はあくまでも「救い」という大きな枠の中に包含されているものです。同様に「きよめ」と
いう枠の中に包含されている「更なるもの」に着目しています。
その内容が、「結実」であり、結実の場である「教会」であると主張しています。
「聖化」の恵みに与ったなら、聖霊はその人を「結実」に導かれます。「結実」と「成長」の繰り返
しによって、S.A.キーンが「信仰の盈満」(文献(10))に述べている進歩のあるきよめの道を
進むことができます。そのことに関して大切なことは、素地が造られることです。よいと思っても
できないのが人間です。ですから、できる素地が必要であり、教会の中で訓練されることによっ
てその素地が造られるのです。
教会員の中にその素地を造ること、そこに「教会の建設」があります。
また信仰は「生活」です。ですから、心意気だけでなく、それを実行しやすい環境をつくりだすこ
とが大切です。本文に例話として記載されていますが、集会に欠けなく出席しようと思ったから
教会の近くに住んだ、というような生活の仕方をすることです。遠くに住みながら心意気だけで
集会に欠けなく出席することは大変なことです。
どのようにしてその素地を教会員の中に造るかについて、いくつかの提案がなされています。
「教会」についての強調点としては、ウェスレーにはじまるきよめ派の信仰は、神と私の間の信
仰、つまり「個人の信仰」に尽きますが、人間が神と他の人の間に立つ、「神の代務者」を務め
るのであり、それが「教会」の役割であると述べています。「万人祭司」ということがプロテスタン
ト教会の間で広く受け入れられてきました。祭司は神と人との間に立つ人で、「神の代務者」で
あるのですが、その意味で把握されてきませんでした。祭司だけでなく「万人預言者」「万人王」
であって、神の任命された目的、対象、時、場において、都度その務めを果たすという主張で
す。そこに神の権威が働くのです。

この提唱がきよめ派の人々の間でもっと深く掘り下げられることを期待しています。


「天国にそのまま入れる潔さ」で地上の生活をするという表現をしていること
 これは大変強い表現です。この表現によって述べていることがどのような内容であるか理解
していただく必要があります。
 私は、「天国にそのまま入れる潔さ」は、心に一点の曇りもなく、神のみこころに服従できる心
を有すること、以上でも以下でもないと理解しています。
 その理由は、錬られた品性は長い真摯な信仰生活によって与えられるものですが、「天国に
そのまま入れる潔さ」はそのようなものではありえません。十字架の上でイエスと一緒に磔刑に
処せられた罪人にも、与えられたものでなければならないからです。


「聖霊のご支配に従う」ということについて
「聖霊は人間を支配されないから、聖霊のみ声により示されることを自分で行いなさい」という
表現と、「聖霊のご支配に服従しなさい」という表現が錯綜して用いられています。
「聖霊が人間を支配されない」という意味は、「聖霊は人間の霊にとって代わり、人間の意志を
乗っ取ってしまうような支配はなさらない」ということです。
聖霊のご命令に人間が自分の意志をもって従うことを、「聖霊のご支配に従いなさい」と表現し
ていて、読んでみると矛盾か?と感じる箇所がありますが、上記の区別で述べています。


 いくつかの著作を引用し、それらのあるものについて、聖書の教えるところと異なるとコメン
トしていますが、日本語に翻訳された文献に対するものであって、原著に対するものではない
ことを明らかにしておきます。もし翻訳の文脈が原著者の意味する内容と異なっている場合、
ご容赦いただきたいと思います。


自我という用語の定義
 本書では、「人格」「人霊」を中心に据えましたので、自我は自意識の部分のみを取り上げて
います。心理学や精神医学等で用いる定義には、自我を人格と全く同一のものとして使用して
いる場合があります。


全的堕落について
 本論の中では、全的堕落の説明として、人間の行動の原理が利己心のみであること、神に
服従しないこと、しか取り上げていませんが、6.聖霊と聖潔 の章に述べている内容から、聖
霊のお働きを除くと救われる前の人間の姿を示していますら、「全的堕落」に関する私の見解
をよく表しています。
 人間は神の助けなしにイエス・キリストを信じて救いに至ることはなく、神が助けて救いに入
れてくださるのであるけれども、神は人間に自己決定の権威を与えられ、それを侵害されるこ
とはありません。神の助けは、罪を認識する心の機能、悔い改めることができる心の機能、信
じることができる心の機能を回復させてくださるけれども、悔い改めるのは人間であり、信じる
のは人間です。


神が天地創造にかけられた時間の問題
 私は、神は暦日の6日間で創世記1章の天地創造をされたと理解しています。時間も空間同
様神が創造されたものであって、神は時間に縛られることはありません。
 神が天地を創造されるに当たって、まず今の自然法則を先に造られて、それを用いて創世
記1章のみ業をされたのではありません。今の自然法則に従って、6日でそれを完成すること
はあり得ないことです。ですから、創造は「奇跡」によるのです。


イエスが話された例話の引用について
 放蕩(弟)息子の物語など、イエスが話された例話のうちのいくつかについて、譬えと書いて
ないものは、イエスがご存じであった実話であると解釈して、引用しています。



これらのことを念頭において、読んで頂きたいと思います。
   2008年1月14日
                                            野澤 睦雄


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