結実  

6.聖霊と聖潔


 「御霊に満たされなさい。」(エペソ 5:18)
 「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ 5:16)

 救いも潔めもすべてイエス・キリストの贖いによって与えられるものです。ですからイエス・キリ
ストを知ることは、聖潔を受け聖潔に生きる上で欠くことの出来ないことですが、イエスについ
ては他を参照して頂きたいと思います。中でも、H.C.ヒューレットの「主の栄光」(74)を、聖霊
の光のもとに熟読されるなら、「私は主にお会いした。」といえる経験に導かれることを疑いま
せん。またジェームズ.ストーカーの「キリスト伝」(75)もよい示唆を与えてくれることでしょう。
 これまでの章では、聖潔についても、人間の側を主体に述べて、聖霊についてはほとんど述
べませんでした。イエス・キリストの完成して下さった贖いを、私たちひとりひとりのうちに実現し
て下さるのは聖霊です。
 本章では、直接私たちの内に聖潔を実現して下さるお方、聖霊について聖書の示す事柄を
検討します。
 私たちの信ずるキリスト教の神は、父・子・聖霊(コリントU 13:13)の三位一体の神であって、
聖霊はその第三の位格のお方です。三位一体の神はそれぞれ人格をお持ちです。ですから
人間の人格のレベルで言えば、神は三人のお方だと言っても全く差し支えありません。天地創
造のとき既に、父・子・聖霊は、「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。」
(創世記 1:26)と言って相談されていますから三人のお方です。その三人のお方が"ひとりの
神である"(申命記 6:4、マルコ 12:29)のであって、人間には理解し難いことですが、聖書の告
げるままに受け取ればよいのです。
 神は、霊(ヨハネ 4:24)であり、永遠(創世記 21:33、ダニエル書 4:34、詩篇 90:2、ローマ 1:
20)・無限(列王記T 8:27、ヨブ記 11:7)・遍在(詩篇 139:8〜9)・不変(ヤコブ書 1:17)・全
知(サムエル記T 2:3)・全能(創世記 17:1)なるお方です。また、神は、聖(レビ記 11:44、ペテ
ロT 1:16)・愛(ヨハネT 4:16)・義(創世記 18:25、ローマ 1:17)なるお方です。神は、万物の
創造者(創世記 1:1、詩篇 121:2、コロサイ 1:16)また保持者(コロサイ 1:17)です。そして、万
物の審判者(創世記 18:25)であられます。神は人間に対し真実(詩篇 89:1〜52)な方、す
なわち無限の誠実さをもって私たちを扱って下さるお方です。
 聖霊は神であられて、これらすべてをお持ちのお方です。
 神がどのようなお方であるかということに関する聖書の記述は、R.A.トーレーによって「聖
書の教え」(76)に取り上げられています。
 人間の救拯に対して、三位の神は、それぞれ役割を分担されました。父なる神は御子の世
に来られる準備をされました。そして、御子イエスを遣わされました。御子の十字架の贖いの
完成は、父なる神の主導で行われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど
に、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ
ためである。」(ヨハネ 3:16)「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、…
彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ 2:21〜23)アブラハムは、ひとり子を捧げる苦悩を味
わいました。それによって、父なる神の心を知ったのです。ですから彼は神の友とよばれ、父な
る神は「アブラハムの神」と呼ばれることをよしとされました。
 御子は、神の栄光を捨てて人間となり、人間の悩みと病を味わわれました。また、弟子を育
成して福音宣教を委ねたのち、十字架の死をもって贖罪の業を完成されました。
 アブラハムが神の命令に従ってイサクを祭壇に捧げようとしたとき、イサクは従順に父に従
いました。それによってイサクは、イエスの型となりました。イエスは「神の御姿であられる方な
のに、…人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にま
でも従われたのです。」(ピリピ 2:6〜8)ですから、イエスは、「イサクの神」と呼ばれることをよ
しとされました。
 イエスが、地において宣教されていたとき、こう解説されています。
「これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ
栄光を受けておられなかったので、御霊はまた注がれていなかったからである。」(ヨハネ 7:39)
 今の私たちは、既に注がれた聖霊を知っているので、ここで解説されていることばの意味合
いを理解することができます。聖霊が注がれることは、新しい時代が到来することを意味して
いました。
 「父なる神、子なる神、聖霊なる神」は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプ
ト記 3:6)と自ら呼ばれました。
 ですから、聖霊はヤコブの神です。
 聖霊は、イエスの上に注がれ、イエスの地上生涯の間、イエスの内に住み、イエスの心を心
とされました。バプテスマのヨハネはそれを予見し、イエスを世に紹介する予言者となりました。
彼はこう証言しました。「…御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私
は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を
遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるの
があなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを
見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ 1:32〜34)ですか
らその職務のゆえにヨハネは、"最後の、最大の予言者"と認められました。(ルカ 7:28)
 聖霊のイエスへの内住は、聖霊の人間への内住の準備でした。
 聖霊は、イエスがヨハネからバプテスマを受けた時から、イエスの内にあって、人間イエスを
導かれました。イエスを荒野に導き(マタイ 4:1、マルコ 1:13、ルカ 4:1)悪魔と対決させました。
イエスは御霊の力で宣教されました。(ルカ 4:14)イエスは、「わたしの上に主の御霊がおられ
る。主が貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを
遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげら
れている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ 4:18)との聖書を自
分のこととされました。(ルカ 4:21)イエスは「神の御霊」(マタイ 12:28)「神の指(聖霊)」(ルカ 
11:20)によって業を行なわれました。イエスが、パリサイ人たちの心のかたくなさに、怒りかつ
嘆いた時も聖霊は一緒におられました。(マルコ 3:4〜5)最後の晩餐で、イエスが弟子たちの
足を洗われた時にも(ヨハネ 13:3〜15)、ゲッセマネにも(マタイ 26:36〜46)、ピラトに対してイエ
スが「わたしは真理のあかしをするために…世にきた」(ヨハネ 18:37)と言われたときにも、十
字架の上で母マリヤをヨハネに託した時(ヨハネ 19:26〜27)にも聖霊はイエスと共に居られま
した。十字架の最後は、「イエスは…頭をたれて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ 19:30)と記さ
れています。
 そのようにして、イエスの心を心とした聖霊は、イエスが天に帰られた後、弟子達の中に助け
主として来られ、弟子達の内にイエスの心を示し、聖霊に従う者にイエスの心を心とすることを
実現されました。イエスの弟子達は、イエスの教えを受け、その模範を見、実地訓練を受け、さ
らに心の内にイエスの霊を頂いたのです。
 人間の聖化の問題は、この聖霊が弟子達の中に来られた時に初めて明かにされました。で
すから、これは福音の奥義(コロサイ 1:27)なのです。
 新しい時代の幕開けのため、初めて聖霊がおいでになったとき、イエスの弟子たちがそれを
理解できるように、神は特異な現象を示されました。それがペンテコステ(使徒 2:1〜41)で
す。
 現在の時点でペンテコステの異象を求める人々もいますが、それは聖書にも、教会史にも、
個人的宗教経験にも支持されません。「予言の賜物ならば廃れます。異言ならばやみます。」
(コリントT 13:8)と書いてあるとおりです。その理由は、異象そのものは福音経験として必須の
ものではないからです。必要なことは、聖霊が魂の内においでになり、その人に内住して下さる
ことだけなのです。
 前にも述べたように、聖化、潔め、聖霊のバプテスマ、第二の転機、キリスト者の完全、全き
愛、聖霊の満たし、などの言葉をもって表現されるこの経験は、同一の経験の諸方面を強調し
て述べているのですが、それを与えられたことは、異言などの外的な現象によって知るのでは
なく、直接魂(心)の中に聖霊が、「あなたは潔い。」と証詞してくださることによって知るので
す。


6.1 人間の救拯に関する聖霊のお働き

 人間の救いについては、前章、「救いの経綸」において既に述べたことですが、視点を聖霊
の働きに置いてもう一度記述します。
 救いに与る前の人間は、罪を犯しても神への恐れがなく、聖書の真理であることを理解せ
ず、やってくる神の裁きを知りません。その人間に、神がおられること、義とは何であるか、罪
とは何であるかという認識と、自分は罪人であるという「認罪」を与えるのは、聖霊です。イエス
はいわれました。「その方(助け主、聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについ
て、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ 16:8)
 ペテロに「主よ。私のような者から離れて下さい。私は罪深い人間ですから。」(ルカ 5:8)と言
わせたのは聖霊です。
 放蕩息子に、「立って父のところに行ってこう言おう。」(ルカ 15:18)と考えさせたのは聖霊で
す。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前にも罪を犯しました。」(ルカ 15:21)
と言わせたのは聖霊です。
 ピリピの牢番にパウロとシラスに対して、「先生方。救われるためには、何をしなければなり
ませんか。」(使徒 16:30)と言わせたのは聖霊です。
 人間は「全的に堕落」したものであって、聖霊の助けなく救いを求めることを致しません。
 聖霊は、悔い改めた罪人に、罪の赦しを実現し、新生のいのちを与えます。聖霊によって「人
は新しく生まれ」(ヨハネ 3:3、5)ます。「いのちを与えるのは御霊です。」(ヨハネ 6:63)人間は自
分で新しくなることはできません。ニコデモが、「母の胎にもう一度入って生まれるのですか。」
(ヨハネ 3:4)と聞いたのと同じくらい、人間が自分で新しくなることはできないのです。
 新生した人の心に神の言葉を示されるお方は聖霊です。
「『これは、彼と結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの
霊、わたしがあなたの口においたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口か
らも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」(イザヤ 59:21)
「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」(ローマ 10:8)
 聖霊は、新しく生まれた人の内に静かに宿り、その人の執り成し手となられます。「キリストの
御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ 8:9)なのです。救われた信者
は、本人が気づかなくても、聖霊は一緒に住んでいてくださるのです。聖霊は信仰の保持者で
す。聖霊が人の魂(心)から去られると、その人のうちに知識は残っていても信仰を失います。
ですから「聖霊を悲しませ」(エペソ 4:30)たり、「御霊を消し」(テサロニケT 5:19)たりしてはいけ
ないのです。
 聖霊は、一緒に祈って下さる方です。「言いようもない深いうめきによって、私たちのためにと
りなしてくださいます。」(ローマ 8:26) ですから聖霊のおられるとき、「いつでも祈るべきであ
り、失望してはならない」(ルカ 18:1)とのイエスの教えを守ることができます。人間は、祈り無し
に、救われること、善き信仰をもつことも出来ません。
 "聖霊の御支配に従いなさい。"と教える人々もいますが、それは特異な場合にのみ存在す
ることであって、通常は、聖霊は私たちを支配されません。聖霊は助け主として、かすかな細い
声(列王記T 19:12)で教えられます。人間がその声を聞きその声の示していることを自ら行
いませんと、聖霊は沈黙されてしまいます。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示 3:22)

6.2 人間の聖化・聖潔と聖霊
 信者の中になお罪のあることを示されるのも聖霊です。罪と戦って破れ、悔い改めてはまた
罪を犯す。そのような信仰生活の中で、「私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の
からだから、私を救いだしてくれるのでしょうか。」(ローマ 7:24)と叫ばせるのは聖霊です。そし
て、「イエス・キリストにあるいのちの御霊の原理」(ローマ 8:2)の解放に至らせるお方は聖霊で
す。
「わたしは…すべての国からあなたがたを集め、…あなたがたはすべての汚れから潔められ
る。…あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたが
たのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたの
うちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。…あなたがたは
わたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。わたしはあなたがたをすべての汚れから
救い…」(エゼキエル書 36:24〜29)とあるように、人間の内から不服従を聖絶されるお方は聖
霊です。
 人間の心に、「神の愛が…注がれる」(ローマ 5:5)ことを実現されるお方は聖霊です。「イエス
を荒野に導かれた」(マタイ 4:1〜11)ように、人間を試練の場に導かれるのは聖霊です。人間
を結実の場に導かれるのは聖霊です。そこで愛、すなわち「愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたまみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分
の利益をもとめず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに心理を喜びます。すべてを
がまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(コリントT 13:4〜7)の実
を結ばせなさるのは聖霊です。
 「キリストが…教会をきよめて聖なるものとする」(エペソ 5:26)ことを実行されるのは聖霊で
す。私たちを「キリストの妻」(エペソ 5:29)とされるのは聖霊です。教会は福音の奥義なので
す。(エペソ 5:32)
 教会に集まった信者に「御霊の一致」(エペソ 4:3)、「信仰の一致」(エペソ 4:13)を与えるの
は聖霊です。「両者(異邦人とユダヤ人)を一つの体とし…ともに一つ御霊において、父のみも
とに近づく」(エペソ 2:11〜22)ことは、福音の「奥義」(エペソ 3:5)です。
 前章「救いの経綸」、においても述べましたが、聖化および聖潔とは何であるかその概要を
聖霊の関与という視点からもう一度述べておきます。


・聖化
 G.A.ターナー(77)は、"「聖潔」は神に似たるものとしての状態をいうが、「聖化」とは「聖き」
性質が神より他のものへ委譲されることをいう。"と解説しています。
 聖化の経験において、人間に与えられるものというよりもむしろ人間から取り除かれるもの
は、「神の権威に対する不服従」だけなのです。神の御支配に全く服従すること、もっと詳しく
は、人霊の内側まで神の権威に服すること、これが神が人間に与えられる潔めの根底です。
 この経験において人間に与えられるものは、聖霊の内住です。聖霊は人間の「魂(心)」にそ
の人の霊とともに住まわれます。聖霊は謙遜な方であって、決して人の支配者として君臨され
ません。いつもその人の霊が同意したことのみを行われます。人の心を支配する霊の姿がそ
の人の心、さらには体を通して示されます。一方、サタンは人の心に住むとその人を支配しそ
の人を奴隷とします。

 聖霊の内住と一緒に、神の言葉が、心の内に記されます。神のことばが人間のうちに記され
るということの意味合いについては、少し説明を要します。神の戒め、律法が心に記されると
は、今まで知らなかった聖書のことばが、思い浮かぶというようなことではありません。聖書の
言葉は、人間の世界において既に書かれた言葉として存在します。ですから、預言者に対して
神が語られたようなことはもう要らないのです。そのような意味での必要に対しては、今の人間
には聖書を読むことが求められているのです。
 神の戒め、律法が心に記されるとは、神の言葉に対する態度に現されます。真に救いに与っ
たキリスト者は、神のことば「聖書のことば」に対する畏れを持ちます。そして、自らの行いがそ
の規範に合致しないとき、罪であることを意識します。救われていない人は、そのような恐れを
持ちません。彼らは、聖書のことばを、人間の文学のように扱います。
 聖化は神の言葉に対する恐れを一層鋭くさせます。その神の国に対する知識が広がるから
です。


・聖潔
 聖化された状態に保たれることが聖潔です。聖化された人に内住された聖霊が聖潔を保っ
てくださるのです。
 聖潔の人生を歩むためには、光の中を歩むことが求められます。「もし、神が光の中におら
れるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血
はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT 1:7)
 もし私たちが、怠りなく歩むならば、前にも述べたとおり、S.A.キーン(78)の述べる「前進
的潔め」を与えられるに至ります。


6.3 結実、成長と聖霊
 「主は御霊です。主の御霊のあるところには自由があります。」(コリントT 3:17)
 「御霊の実は、愛、喜び、…です。」(コリントT 13:4〜7)
 前章、「救いの経綸」において、結実、成長の定義を述べました。要点をもう一度述べます
と、もともと人間は全的に堕落したものであって、善き実を結ぶ要素は持ち合わせておりませ
ん。ですから、神は救い、潔めの経験とともに、神の聖・義・愛であるその品性を人間の内に注
ぎ、分与されるのです。それを与えられた人間が、それを預けられたタラントとして、生活の場
の中におかれた必要に対して活用する、すなわち愛の行いを行うとき、それを結実というので
す。イエス・キリストがタラントの譬えで語られた通り、人間が善き実を結ぶと神は神の聖・義・
愛を更に多く与えなさるのです。神がその聖・義・愛を増して下さるとき、人間は自らそれを自
覚し、自分の変化を認識します。それを人間の成長というのです。ですから成長は「経験」され
るのです。
(追記:「経験」については3.6自我の項をご参照ください。成長を自覚できることは、信仰の進
歩の上で重要です。)
 「あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出さ
れた新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ 4:23〜24)聖化において、人間に神の聖性
が分与されますが、その神の聖の分与は、さらに先の時点で、遙かに広がっていく性質のもの
で、その量、その質が増大するといっても差し支えありません。「こういうわけで、私はひざをか
がめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか
父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力を持って、あなたがたの内なる人を強くしてく
ださいますように。…人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうし
て、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とのパウロの祈り
は、終わることのない、神により似たものとなっていく広い恵みの世界を示しています。そこに
進歩的潔めがあります。
(追記:「進歩的潔め」という用語と前項6.2の終わりの部分に記述している「前進的潔め」という
用語を同一のものとして扱っています。)
 人間の結実と成長も、実自体が「御霊の実」と言われるくらい深く聖霊が関与されています。
神の愛を注ぐのも聖霊、結実の場に導かれるのも聖霊、私たちはぶどうの木の枝で、父なる
神が実を結ばない枝を除かれ、ぶどうの木の手入れをされてもっと実が実るようにされると書
かれていますが、それを私たちに実現して下さるのも聖霊です。
 御霊に満たされること、御霊によって歩むことが、結実と成長のための必須の要件であるこ
とは言うまでもありません。自ら進んで御霊の権威に服すること、それが鍵なのです。
 私たちの結実と成長は何もしないで与えられるものではありません。それは、神が与えて下
さるところの結実と成長の場、その機会に私たちがどのように生きるか、何を行うかにかかっ
ています。




7.教会と聖潔に進む



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