結実  

1. 緒 論


 本章は、次の項に区分してあります。
 ・本書の背景
 ・本書の目的
 ・本書の構成


1. 本書の背景
 現在私たちが信じている聖潔は、ジョン・ウェスレーによって明らかにされたものであることは
論を待ちません。彼の著書「キリスト者の完全」、正確な表題は「1725年から1777年まで司
祭ジョン・ウェスレー氏によって信じられ、教えられたままのキリスト者の完全についての平易
な説明」(1)〜(5)なのですが、その中に聖潔に関する教理が明確に示されています。

 その後「聖潔」、「潔め」、「全き愛」、「第二の転機」、「聖霊のバプテスマ」、「聖霊の満たし」な
どの用語でその視点を変えながら同一の信仰経験とその状態について明らかにされました
が、著者の手元にある邦訳されている文献、C.W.ルス、「第二の転機」(6)、パゼット・ウィル
クス、「聖潔」(7)、トマス・クック、「新訳の聖潔」(8)、A.M.ヒルス、「聖潔と力」(9)、S.A.キ
ーン、「信仰の盈満」(10)、J.A.ウッド、「全き愛」(11)、ハンナ・W.スミス、「信仰の秘訣」(1
2)、ロイ・S.ニコルソン、「聖化論」(13)、ハリソン・R.S.デービス、「聖化論」(14)、H・E・ジェ
ソップ、「聖化論」(15)、サムエル・チャドウィック、「キリスト者の完全への招待」(16)、ロイ・S.
ニコルソン他、「聖潔と人間的要素他論文四編」(17)、ラルフ・アール他、「贖罪の性質と範囲
他論文四編」(18)、レスリー・R・マーストン他十名、「現代ウェスレアン神学思潮」(19)、C.B.
ウィリアムソン、「聖潔の福音」(20)、サムエル・チャドウィック、「聖霊体験への道」(21)、W.
T.パーカイザー、「キリスト者の聖潔」(22)、レオ・ジョージ・コックス、「ウェスレーの完全論」(2
3)、G.A.ターナー、「ウェスレー神学の中心問題」(24)、T・N・ロールストン、J・マイレー、W・
B・ポープ、「メソジスト聖化論」(25)、などに見る限り、その思想がジョン・ウェスレーによって明
らかにされた範囲を越えたものはありません。かなり多数の著書を引用した理由は、少数の引
例では漏れがあってそのように結論することができないからです。

 ウェスレーと違うものに、例えば聖霊の満たしのみを強調し、聖化の中心的課題である罪性
の潔めを避けて通る教条を示す人々がいますが、それらは聖書が示す潔めとは似て非なるも
のです。これらの教条の違いは,ワインクープ(26)によって整理されています。

 聖潔の概念で最も身近にありながら、聖書の示す聖潔と異なっている考え方は、聖霊の満た
しによって潔く生きることを強調し、罪性の潔めを否定する抑圧説であろうと考えられます。詳
細は「5.救いの経綸」の章で扱いますが、聖潔とは、「そのまま天国に入るのにふさわしい状
態」です。このことをきちんと把握していれば、「罪性の根絶」という言葉を用いることを嫌い、
聖霊の満たしによって潔く生きることのみを強調する抑圧説は潔めではないということを理解
するのは容易いことです。抑圧説は人間の本質的な潔さを求めず、行為の潔さが達成されれ
ばよいとするものでありますから、救われていないのに、善を行って生きることによってキリスト
者であろうとすることと全く変わりません。イエスの示された道は、「杯の内側をきよめなさい。
そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ 23:26)なのです。

 パウロはローマ人への手紙において、キリスト者が通る信仰の道筋を明らかにしました。ロ
ーマ人への手紙は、はじめの挨拶と末尾の音信を問う記事を除き、8章までを教理的部分、9
章以下を実践的部分と見るのがキリスト教界一般の定説です。視点を変え、全部教理が記さ
れているとしてこれを眺め直すと、「救いの教理」「潔めの教理」「潔められた後の問題に関す
る教理(結実の教理)」で構成されているといえます。ルターはそのうちの1〜5章即ち救いの
教理を、ウェスレーは6〜8章即ち潔めの教理を経験の宗教として明らかにしました。残されて
いるのは、9〜16章即ち「結実の教理」であって、そこには「教会と聖潔の関係」が示されてい
ます。

 ウェスレーが”教会をつくらなかった。”と言っているのではありません。彼の教理的な整理の
中に入っていないということであって、それはルターが潔められた神の器であったことを疑う余
地がないにもかかわらず、神はルターに「潔め」を託されなかったのと同じであるといっている
のです。

 政治や社会問題のことを抜きにして、信仰の教条に関わることに関してのみ言えば、ルター
の戦わなければならなかったものは、カトリックの「教会神権」、「行いによる義」、「祭司制」で
あって、「聖書神権」、「信仰義認」、「万人祭司」の旗を高く掲げることが彼の使命でした。聖潔
には、人が実際に潔く生きる、潔い行いをするという、ヤコブ書に記されているような(ヤコブ 2:
14〜26)行為の問題が含まれますから、同一人物が信仰義認を確立することと一緒にそれを
担うことはできなかったのです。

 ウェスレーの戦った主たる相手は、カルビン神学であったといえます。ウェスレーが周囲のキ
リスト教宗教家たちと行った論争の最も重要な問題は、「アルミニウス主義とカルビン主義の
間の五争点」、「確証の教理」、「キリスト者の完全の教理」に集約されます。そしてまた、一方
にはカトリックや英国教会も彼に敵対するものとして厳然と存在していました。ですから、本書
に取り上げるような、教会に関する微妙な内容を含む神学を、神はジョン・ウェスレーには託さ
れなかったのです。

 ジョン・ウェスレーの信仰を一口で表現すれば、個の信仰、ただ一人の信仰なのです。彼の
信ずる範囲では、教会は救われた信者の集合ですが、それは「個の信仰者」の集合なので
す。複数の人が信仰を共有したり、他の人の信仰で誰かが救われるようなことは彼の考えに
は入っていないのです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つ
の部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであ
って、ひとりひとりは各器官なのです。」(コリントT 12:26〜27)という聖言に示される信者の融
合体がどのようなものであるのか問い直されなければなりません。”神と私の関係という二者
の関係”だけでなく、”神と私と隣人の三者の関係”が問われるのです。

 「万人祭司」あるいは「各人祭司制」という思想は、聖書に明らかに記されていますが、それ
をカトリックの司祭制度に対抗するものとして信仰の場に回復したのはルターでした。しかし彼
はその内容を十分に解明する務めは託されませんでした。ジョン・ウェスレーもまた同様であ
り、カトリック並びに英国教会の司祭制度との戦いのため、神はウェスレーにはその微妙な信
仰の領域を託されなかったと言えます。「祭司」は神の代務者なのです。新約の時代の神の代
務者とはどのようなものか問い直されなければなりません。特に「権威」という観点からそれを
問う必要があります。「イエスはもう一度彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父
がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、かれ
らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、そ
の人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残りま
す。』」(ヨハネ 20:21〜23)これは真剣に取り組むべき課題です。

 教会には牧会者と会衆、牧師と信徒、牧者と羊がいます。「あなたがたは行って、…弟子とし
なさい。…彼らを教えなさい。」(マタイ 28:19〜20)という内容は、全世界の教会の中に、牧師と
信徒の制度として継承されています。その師と弟子の関係も問い直す必要があります。

 ここ日本においては、キリスト教の勢力は弱く、カトリックの影響もほとんどありません。戦時
中は多くの迫害もあったことを知らされますが、今は無関心の時代です。しかし、ひとたびキリ
ストの救いに与り、それに真摯に生きようとするなら、いまは安らかに静かに一生を送ることの
できる恵まれた時代です。

 日本では手に職をつけるといって、誰かの弟子になって教えもらうということがありました。そ
の伝統は決して亡んではいません。学校でも、ある段階までくると教授の弟子となるのです。大
工などの職業や花道、茶道、美術、陶芸、工芸といった世界でも厳然として師匠と弟子の関係
があります。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ 28:19)という
キリストのご命令の真の内容を把握するよい土壌がそこにあります。ですから神は、ウェスレ
ーの次に来る事柄、即ち「教会の奥義の解明」を、この日本に与えておられるのです。

 「教会の奥義」は、異邦人である私達が、「福音により、…約束にあずかる者となる」(エペソ 
3:6)ことであり、「あなたがた(わたくしたち)の中におられるキリスト」(コロサイ 1:27)であり、
「キリストと教会」(エペソ 5:32)が「一心同体とな」(エペソ 5:31)り、「聖く傷のないものとなる」
(エペソ 5:27)ことなのです。ここに「聖潔の奥義」があります。

 師匠と弟子との間には、単に知識の授受以上の関係があります。そこには、人格と人格の
交流や戦いが含まれています。この関係をもっと広く、教会という場で考えてみるとき、牧師と
信徒、夫と妻、親子、兄弟姉妹と兄弟姉妹、信者と求道者、などがおり、時には教会に敵対す
る人々までいたりしますが、それぞれの間に人格と人格の交流や戦いがあります。この人格的
交わりは、同一の課題を一緒に担ったり、あるいは両者が対峙する関係であったりする中に
特に強く存在します。コリント人への手紙第一、13章4節から7節までの、「愛は寛容であり、
愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反すること
をせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びま
す。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを堪え忍びます。」に取り上げら
れている事柄は、すべて人格と人格の間に存在することなのです。聖潔は愛に全うされること
ですから、この人格の交わりの中以外には存在し得ないと言えます。

 メソジズムが日本に紹介されたとき、「メソジスト」という言葉が「几帳面派」と訳されました。し
かし初代のメソジスト達は、正餐という方法、集会出席という方法、聖書を読むという方法、個
人的な祈りの時を持つという方法、慈善を行うという方法に頼って信仰をしていこうとする人々
であったため、”方法に頼るやつら”という意味でメソジストと呼ばれたのですから、メソジストは
「方法論者」と訳されるべきでした。

 人が神に近づき、良き実を結ばせて頂こうとするとき、この方法論を見直す必要があります。
そして、今問い直されているのは、多くの人に同じ言葉で「聖書を読みましょう。」「祈りましょ
う。」と言うようなことではなく、信者のひとりひとりが信仰生活の場の中で、摂理によって遭遇
する課題に対して、神が「こうせよ。」と示される方法、あるいは神が嘉納される適切な自らの
方法を見いだし、それを実践することによって、信仰の確立と結実をすることが許されます。
「彼(アブラハム)は、その子イサクを…ささげたとき、行いによって義と認められ」(ヤコブ 2:
21)たという原則は、潔めの実を結ぶ時にも当てはまります。聖潔はそこにおいてその人のも
のとなるのです。「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱで
す。その願い通りになるように。』」(マタイ 15:28)この女の人の信仰はその人自身のものとさ
れています。

 同じように聖潔もその人自身の聖きでなければなりません。重ねて言えば、イエス・キリスト
がその十字架の贖いによって備えて下さった聖潔を、自分のものとして本当に頂いてしまわな
ければならないということです。誤解を与えないように付け加えますが、イエス・キリストと私た
ちは葡萄の幹と枝との関係(ヨハネ一五の五)であって、私たちが与えられる聖潔は、私たち
が幹であるキリストにつながっているときにのみ存在するものであることは言うまでもありませ
ん。

 本書は、従来あまり重きを置かれてこなかった「権威」と「時間」という視点で、世界観、人間
観、救拯観、を考察しています。この視点を加えるとき、「罪と罪の性質との関係」、「結実と潔
い品性との関係」など、聖潔の理解に欠くことのできない問題を、明快に判別できることが示さ
れます。これにより、本来中心テーマを解き明かすための解説に過ぎない部分にも、新規性が
付与されています。


2.本書の目的
 本書を著す目的は、「本書の背景」に記した問いについて探求した結果を明らかにすることで
す。箇条書きにするならば、

・神と私と隣人の三者から成り立つ信仰
・新約の祭司職…神の権威の代務者
・教会制度の中における牧師と信徒
・方法と信仰

であって、はじめから3つは一口に言えば、教会に関する問題です。最後のひとつは、聖潔を
得、その中に歩むことを可能ならしめることに関わるのです。

 「わたしは…教会を立てます。…わたしはあなたに天の御国の鍵を上げます。何でもあなた
が地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天
においても解かれています。」(マタイ 16:18〜19)とはどういうことでしょうか。「弟子としなさい」
(マタイ 28:19)、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ 21:17)という言葉を本当に実行するとウェス
レーの個人信仰の範囲で収まるでしょうか。神に代わって信徒を弟子として教え、羊として養う
ことが使命なのですから、その内容は神の代務者なのです。

 誰かの信仰によって、他の人に「先行恩寵」が豊かに与えられる場合があります。この点に
ついては、ウェスレアンの信仰に立つ人々には容易に受け入れうるものと思われます。
 この問題に更に立ち入って見ると、以下のような聖書の記事に目が止まります。「ふたりは下
っていって・・・彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(使徒 8:15〜17) という記事
は、二人の信仰で他の人々が潔められたことを示しています。「パウロが彼らのうえに手を置
いたとき聖霊が彼らの上に臨まれ…」(使徒 19:6)たのはパウロの信仰によったのです。ポプ
リオの父は本人の信仰によってではなく、パウロの信仰によって癒された(使徒 28:8)ので
す。

 「誰かの信仰によって他の人が救われることがあり、また誰かの信仰によって他の人が潔め
られることがある」ことを前述の聖句は示しています。信仰が個人に属するものであることをひ
たすら信じてきた人々には受け入れがたいと感じられるかもしれないこのことが、教会に与え
られている栄光ある特権なのです。ジョン・ウェスレー(27)自身もその可能性自体は認めてい
ます。

 ハイド(28)の働きや、ブレイナード(29)の働きが伝えられ、日本の潔め派の教会に受け入れ
られています。彼らの働きはこの議論の証拠なのです。
 「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられ…たのは、…教会を潔めて聖なる
もの、…潔く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自身の前に立たせるためです。」(エペソ 
5:28〜29)ここに「教会」と、そこに集まる信徒の「聖」との間に関係があることが示されていま
す。

 愛は心のうちに秘められていても、相手がいないと明らかになりません。
「私たちの父アブラハムはその子イサクを捧げたときそれを信仰と認められたのである」(ヤコブ
 2:21)のと同様に、愛は実践されたとき、はじめてその人が愛の人であると認められるので
す。教会はその実践の場をキリスト者に提供するのです。
 ここに、教会無くしては聖潔も無いことが示されています。


3.本書の構成
 本書は、以下の内容で構成されています。

  1.緒論
  2.真理の論証について
  3.聖書の示す世界観
  4.聖書の示す人間観
  5.救いの経綸
  6.聖霊と聖潔
  7.教会と聖潔
  8.結語

2.真理の論証についてでは、本書の論証の立脚点を示します。
3.聖書の示す世界観では、私達の生きている世界がどのようなものであるかを、聖潔を探求
する上において欠くことのできない範囲について考察します。
4.聖書の示す人間観では、人間はどのようなものであるのか、即ち人間の構造、機能、欲
求、罪、罪の性質、人間の誕生、罪の性質の遺伝などについて考察します。
5.救いの経綸では、神が定めておられる人間の救いの全体像がどのようなものであるかにつ
いて考察します。
6.聖霊と聖潔では、私達に聖潔を実現して下さる聖霊について考察します。
7.教会と聖潔では、本書の中心テーマである、本書の背景において取り上げた問いに関する
探求結果を記します。



2.真理の論証についてに進む

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