キリスト者の完全  

19.1759年「キリスト者の完全に関する考察」出版


1759年の会合時に、私たちの間に様々な意見が気づかないうちに入り込んでいる危険性を
認め、私たちはこの教義を再度大いに考察した。そしてその後すぐに私は以下の見出しをつ
けて「キリスト者の完全に関する考察」を出版した。
以下の小冊子はいかなる人々の好奇心をも満足させることを意図したものではない。
それを論破しようとしたりあざ笑ったりする人々に対抗して、この教義を証明しようと意図したも
のでもなく、またそれに対してまじめな人々から提起される数多くの異論に答えるためでもな
い。ここに私が意図しているすべては、単純にキリスト者の完全についての私の考えが何であ
るか、私が理解しているところに従って、それが何を含んでいるか、またそれが何でないか、そ
してこの問題に関する二、三の実践的な概観と方向性とを付け加えて示すことである。
これらの思想は、当初から問答という方法で提示されたので、私は同じ形式を続けることにし
た。それらはこの20年間私が維持してきた見解と全く同じである。

質問:キリスト者の完全とは何であるか?
回答:私たちの心、精神、魂、力のすべてをもって神を愛することである。これには、魂のうち
に残る悪い気質がないこと、愛に反するものがないこと、そして考えも、ことばも、行いも清い
愛が支配していることを含む。

質問:あなたは、この完全がすべての弱点、無知、過誤から逃れさせるものであることを主張
しているのか?
回答:私はずっと全く反対のことを主張し、そうではないと述べてきた。

質問:しかし、考えも、ことばも、行いも純粋な愛が支配したなら、人は同時に無知や過ちを犯
すことできるものであろうか?
回答:私は「人が清い愛に満たされていながら、なお過ちに陥りやすいことがありうる。」という
ことに何の矛盾も見出さない。事実、私はこの死ぬべき体が不死を着せられるまで実際上の
過ちから解放されることを期待していない。私はそれが、魂が肉と血に宿っている間の当然の
帰結であると信じている。なぜなら私たちの体に休みが必要であることと同様に、弱さを持つこ
れらの身体の器官の仲立ちによる以外には、今の私たちには物事を考えることは全くできな
いからである。従って、この朽ちるものが朽ちないものを着るまで、私たちはしばしば間違って
考えることを避けることができない。しかし私たちはこの思想をもっと敷衍することができるであ
ろう。
判断の誤りは実行することに過誤の機会となりうる。例えば、教育に関する偏見から生じた、
苦行により生まれつきの性質を変化させるというデ・レンティ氏の誤りは、彼が鉄の帯を身につ
けているという実際の誤りを引き起こした。最も高い恵みの状態にいる人々のうちにさえも、幾
千のそのような例があるだろう。それにもかかわらず、愛から沸き出るすべてのことばと行い
に含まれるそのような誤りは罪には相当しない。
しかしながら、それは厳格には神の義に耐え得るものではなく、血の贖いを必要とするもので
ある。

質問:1758年8月のブリストルでの会合に出席したすべての兄弟たちのこの問題に関する判
定はどうであったか。

回答:それは以下のことばで表現された。
(1)誰でも生きている限り誤る可能性がある。
(2)誤った考えは行いの誤りを引き起こす可能性がある。
(3)すべてのそのような過ちは完全な律法に反するものである。
(4)それ故、すべてのそのような過ちは、贖いの血なしには、永遠の裁きに曝される。
(5)従って、最も完全な人もキリストの恵みを絶えず必要としているし、彼らの実際の過ちに対
して、彼らの兄弟たちに対するのと同様に自分のためにも「私たちの過ちをお赦しください。」と
祈らなければならない。
これが他の方法では説明がつかない以下のことの理由を容易に説明しているのである。すな
わち、私たちが最も高い程度の愛について語るときには反対しない人々が、人が罪を犯さない
で生きることができるということには耳を傾けないということである。その理由は、人はすべて
判断におけると同様に行いも誤る可能性があるものだということはわかっているからである。し
かし、愛が行動の原理であるならそれは罪ではないということを知らないし、考えないのであ
る。

質問:しかしそれでも、もし罪無く生きているなら、仲保者の必要がなくなってしまうのではない
か?少なくとも、祭司職にあるキリストをもはや必要としていないという立場に立っていて、その
ことが明確でないのではないか?

回答:それとは正反対である。(直訳は「それから非常に離れている。」)
キリストの必要についてそのように感じる人はいないし、自分自身にそんなに頼れる人もいな
い。なぜならキリストは、彼自身の内にあるいは共にいない離れている魂には、いのちをお与
えにならないからである。それゆえ、彼らがいかなる恵みの状態にあっても、「ぶどうの木に枝
が繋がっていないなら、枝はそれ自身では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたし
の内に住んでいないと実を結ぶことができない。わたしなしに(またはわたしから離れては)あ
なたがたは何もできないのである。」といわれた 彼のことばは、全ての人に等しく真実である。

私たちはいかなる状態においても、以下の理由でキリストを必要としているのである。
(1)私たちが受けるいかなる恩寵も、彼からの無償の賜物である。
(2)私たちが受けるものは、例外なく彼がその代価を支払った彼の買い取ったもの、なのであ
る。
(3)私たちは、キリストから頂いたものとしてだけでなく、彼の内にこの恵みを持っている。私た
ちの完全は、それ自身の根から供給される樹液によって花を咲かせる一本の木のようなもの
ではなく、前にも述べたように、ぶどうの木に結合されている枝のようなものであって、実を結
ぶのではあるが、ぶどうの木からの供給が止まると乾燥し枯れてしまうのである。
(4)私たちの受ける祝福のすべては、この世のものでも、霊的なものでも、永遠のものでも、私
たちに対する彼の取り成しによるのであって、彼の祭司職の一部であるから、常に彼の取り成
しを必要としているのである。
(5)最も善い人々も、彼の違反や、不足、(例えば不適切なことばであったりする)、判断と行い
の誤ち、あるいはかれらの種々の弱点を贖って頂くために、常に祭司職としてのキリストを必
要としている。これらすべては完全の律法から離れており、その結果贖いを必要としているの
である。しかしそれらは罪であるとは言えないのであって、私たちは聖パウロのことばからそれ
を明らかにできる。「人を愛する者は律法を全うする。なぜなら愛は律法を満たすものだからで
ある。」(ローマ13:10)
さて、それがなんであっても肉体の朽ちるべき状態から避けられない故に生じている誤りは、
決して愛に反するものではないし、それ故聖書が罪と呼んでいるものでもない。
この問題に関する私の考えをもう少し詳しく説明するために:
(1)罪と呼ぶことが適切であるもの(それは、知っている律法に意志して違反することである)
のみでなく、罪と呼ぶことが不適切なもの(それは、知っていると知らないとにかかわらず、神
の律法に対する意志していない違反である)も贖いの血を必要とする。
(2)これらの意志していない違反を取り除くような完全はないと私は信じている。そのような違
反は、私は死ぬべき人間から切り離すことができない無知や過失の当然の結果であると理解
している。
(3)それゆえ罪なき完全は、私自身の考えに反しないように、私が決して使ったことのないこと
ばである。
(4)私は神の愛に満たされた人もこれらの意志しない違反に陥る可能性があると信じている。
(5)そのような違反をあなたがたは罪と呼ぶかも知れない。それはあなたがたの勝手である。
だが上記の理由から私はそう呼ばない。

質問:それを罪と呼んでいる人々と、呼んでいない人々にどのような助言をするか?
回答:それを罪と呼ばない人々には、自分自身についても他の人についても、仲保者のいらな
い絶対的な義をもって立っているような状態になったなどと決して考えさせてはならない。これ
は最も深い無知か最高の傲慢と僭越であると強調しなければならない。
それを罪と呼ぶ人々には、これらの欠点と、そう呼ぶのが適切である罪とを混同しないようにさ
せなければならない。
しかしどうすればそのような混同を避けることができるのか?
もし全部をごちゃまぜに罪と呼んだとしたら、どうやってそれらを区別することができるだろう
か?
私は、いかなる罪であってもそれが完全と両立することを許容したなら、真の罪であると強調さ
れるべきことと関係しているこれらの欠点を区別できる人がいなくなると、大変恐れている。

質問:しかし完全な愛がどうして過ちを犯しやすいことと一緒に存在しうるのか?
愛にまっとうされており毎瞬その影響下にある人ではないのか?
そして純粋な愛から誤りが流れ出ることがありうるのか?
回答:お答えしよう。
(1)多くの誤りが純粋な愛から生じる可能性がある。
(2)あるものはたまたまそれから流れ出ることがありうるし、愛はそれ自身私たちを誤りに導く
傾向あると考えられる。
神の愛から湧き出す隣人への清い愛は、悪を思わないで、すべてのものを信じ望む。それで
かえって、この大変熱烈で疑う余地が無く信じ望む準備ができているすべての人々について、
私たちの考えが彼らが現実にそうであるよりもよりよいものと見てしまう機会となる可能性があ
る。
それ故ここに、たまたま清い愛から流れ出る明らかな誤りがある。

質問:どうすれば、完全の設定が高すぎたりあるいは低すぎたりすることを避けることができる
か?
回答:聖書に従うことによって、聖書の記述とぴったり同じ高さに完全を設定することができ
る。私たちの心と魂を尽くして神を愛し、自分自身のように隣人を愛する神と人への純粋な
愛・・・これより高いものもこれより低いものもない。それは、私たちのすべての気質、ことば、
行動を貫いている、心情と生活を支配する愛である。

質問:誰かがこれに到達したら、あなたは彼にそれを話すように忠告するか?
回答:恐らく最初、炎が彼のうちにあって非常に熱く、奔流のように彼を押し流す神の愛、神の
優しさを彼は述べ伝えたいと望んで我慢出来ないであろう。しかしやがて自ら制御できるように
なろう。彼がそれを得た直後には、神を知らない人々にも(それはきっと、彼らの反感と非難を
攪き立てるだけである)、あるいは他の人々にも、好ましい見解ではないある特殊な理由で、そ
れを語らない方が当を得ている。
そのとき彼は、すべてを神の栄光に帰し、最も深い謙遜と敬愛をもって語ることによって、自慢
しているように見えることを避けるための格別の注意をすべきである。

質問:しかしそれを全く語らず完全に沈黙しているほうがよりよいのではないのか?
回答:もし神が彼の魂のうちに成されたことを信者たちの間にさえも彼が単純に告白したなら
本来当然忍ぶことが必要になる多くの十字架を、彼は沈黙によって避けることができるであろ
う。それ故もしも、血肉に相談したのであるなら人は完全に沈黙を守ることになるだろう。しかし
自分は語らなければならないという疑うことのできないはっきりした自覚によって、そうはなされ
ないのである。人はろうそくを桝の下には置かない、いわんやなおさらそれは神のすべての方
法とは違っている。それを全ての人類から隠して、彼の力と愛の記念碑を掲げることはできな
い。むしろ、ひとつ心の人々がみなその祝福を受けられるよう意図する。それによって彼は、
単に個人の幸せのみでなく、同じ恵みを他の人々が受けられることのために、励まし勇気付け
ることを画策する。彼の望みは、「多くの人がそれを見」て喜び、「主に信頼を置くこと」である。
より高い救いを既に経験したと信じている人々と会話すること以上に、義とされた人々の望み
を速くするものは天の下に何もない。この会話が彼らに救いをよく理解させ、救いへの飢え乾
きを増大させるのである。もし救われた人が全く沈黙するなら、そういうよい機会が望めないの
である。

質問:しかし、このように救われたと証する人々に常に振りかかるこれらの十字架を妨ぐ方法
はないのではないか?
回答:信者でさえも生まれつきの傾向性が多く残されている間は、彼らがそれを避けることは
全く不可能であるように思われる。しかし、もしも全ての場所にいる説教者が次のようにするな
ら、可能であろう。
(1)このように話すすべての人と心おきなく語り、
(2)十分な証をもっているこれらの人々に対する正しくないあるいは不親切な扱いを取り除くよう
に努めることである。

質問:(罪から全く救われている)妥当な証拠とは何であるか? どのようにして確かにすべて
の罪の性質から救われた人であると知ることができるのか?
回答:神が霊の不思議な洞察力を私たちにお与えくださらない限り、私たちは誰かがそのよう
に救われているか誤り無く知ることはできない。(そればかりでなく義とされているかについても
同様である。)
しかし私たちは、然(しか)るべき人に対してであるなら誰に対してでも十分な証があることが分
かっているし、その証はその業の真実さと深さのいずれかをも疑う余地はない。
 (1)もしこの変化があったと思われる時より以前に、その人が常に模範となる振る舞いをしてい
る明確な証拠を私たちが得ているなら十分である。
それは彼が「神に偽りを言わず」、自分が感じたものより多くも少なくもなく語っていると信ずる
根拠を私たちに与えるものである。
 (2)もし彼がその変化がなされた時と様子を明瞭に、反論の余地なく説明するなら十分であ
る。そして、
 (3)彼のその後のすべてのことばと行いが聖く責められるべきところがないことが明らかならそ
れで十分である。

この内容を要約すると以下のようになる。
(1)この人が嘘を言わないと信じられる十分な理由があり、
(2)彼が神の前に、「私は罪を感じることがない。すべてが愛であり、私は祈り、喜び、絶えず感
謝する。そして私は、義とされたときと同じように、全く新しくされたという内的な明らかな証を持
っている」と証言している。
そうであれば、私はこの明瞭な口述に反対する何ものも持たないし、私はそれを信じるのが当
然である。
反対する何ものも提供していないであろう、

「しかし、いくつかのことについて彼が全く誤っていることを知っている。」
それは既に許容されている。
たとえこの特権を誤り無く用いようと細心の注意を払ったとしても、すべの人は肉体にある限り
誤りを犯すし、判断の誤りは行為の誤りの機会となる。例えば、愛に全くされた人が他の人を
見ることに誤りを犯すかも知れない。時には、その人の欠点を真実の姿より過大にあるいは過
小に考えるかも知れない。そしてそれ故、彼は真に必要としているよりも強く語ったり、あるい
は厳しさが足らなかったりするかも知れない。
そしてその意味で、(聖ヤコブの言うはじめの意味ではないけれども)「私たちは皆多くのことで
誤ちを犯す」のである。それ故、誰かが正しくないことを話したとしても、全然証明にはならな
い。

質問:しかし彼が物音や、びっくりすること、何かの急な危険にのために驚いたりあわてたりす
ることは証明ではないのか?
回答:そうではない。
ある人が震えたり、顔色を変えたり、あるいは他のことで身体的な混乱が始まるかもしれない
が、一方ではその魂が神にとどまり平静であり、完全な平和のうちにとどまっていることがあり
得る。
それどころか、精神的には深く悩み、非常な悲嘆と、重荷と苦痛のために、悶え、混乱し押しつ
ぶされるようであるかも知れないが、心は全き愛によって神に固く結ばれており、御心に全く委
ねているのである。
神の子ご自身もそうではなかったのか?
人の子のうち誰が、神の子が忍ばれたような悲嘆と苦痛と苦悩を忍んだであろうか?
それにもかかわらず、彼は罪を知られなかった。

質問:しかし清い心の持ち主も粗食を退けておいしい食物を選び、厳密には不必要な楽しみを
することがあるのではないか?もしそうであったら、他の人々と何が違うのか?
回答:食物をとることに関するこれらの人々と他の人々との違いは、
 (1) 彼らは彼らを幸福にするものとしてこれらのものを必要としてはいない。なぜなら彼らは
自らのうちに幸福の泉を持っているからである。彼らは神にお会いし、神を愛している。それ故
彼らは常に喜び、全てのことに感謝するのである。
 (2) 彼らは美食を用いるけれどもそれを追い求めはしない。
 (3) 彼らはそれを控えめに用いるのであって、それを貪るのではない。
これを前提として、私たちは直裁に答えたい。・・・潔められた人は、罪の性質から救われてい
ない人々が出会うような危険なしに、おいしい食物を食べることができる。
おいしい食物も、おいしくない食物も同様に健康によいものであるなら、私たちを喜ばせるため
に全てのものを豊かに与えて下さる神のみを見まつって、感謝の増大のためにおいしい食物
を選ぶのである。
同じ原理で、彼は花の香りを嗅ぎ、ぶどうの房を食し、他の楽しみを彼の神にある喜びを減ら
さずかえって増やすために用いる。
それ故、愛に全くされた人だからといって結婚やこの世の仕事が出来ないのではない。もしも
彼がその仕事に召されたなら、心霊の混乱なく、急いだり不注意であったりすることなくすべて
のことをなしうるから、彼は以前にまさって有能でありうる。

質問:しかし二人の完全なキリスト者が子供を産んだとしたら、両親のうちに罪の性質がない
のに、どうしてその子供たちは罪の性質をもって生まれることができるのだろうか。
回答:そのような事例は起こりうることであるが恐らくないであろう。私はそれが今までにあった
こともこれから起きてくることについても疑う。この揺さぶりに対して私はこう答える。原罪は直
接の両親によってではなく、最初の親から私たちに継承されているものである。
「アダムにあって全ての人が死んだ。一人の不服従によって、すべての人々が罪びとになっ
た。」例外なく、彼が禁断の実を食べた時彼の腰にあったすべての人がである。
このこと(潔められた男と女の間に、罪性を持った子ができること)について特筆すべき図式が
園芸の世界に存在する。野生のりんごに接木された木がよい実をみのらせる。しかしこの実の
種を蒔くと、どういうことが起きるであろうか?
それは前に食べたものと同じ単なる野生種の実を産出する。

質問:しかし完全な人は他の人、つまり普通の信者と違うなにをなすのか?
回答:恐らく何も違わないだろう。神の摂理は外面の現れには彼を隠されるのでそうなのであ
る。恐らく他の人にくらべて多くの違いはないだろう。けれども彼は、少なくとも外面的にではな
く心から神のために費やし、費やされることを望み熱望する。彼はそんなに多くを語らないだけ
でなく、そんなに多くの働きをしないかもしれない。私たちの主ご自身、そんなに多くを語らなか
ったし、彼の弟子のあるものがなした働きほどに多くをなさならなかった(ヨハネ14:12)のと同様で
ある。

ではそれは何か?
これは彼が更なる恵みを持っていない証拠ではない。そして神がこの外的な働きによって測ら
れるのでもない。
あなたがたは次の讃美歌に耳を傾けるがよい。
「まことに、わたしはあなたがたに言う。この貧しいやもめは、他のすべての人々よりも多くを投
げ入れた。」
まことに、この貧しい人は、彼の整わないことばをもって、他のすべての人々より多くを語った。
まことに、この貧しい女は、冷たい水一杯を与えて、他の全ての人々より多くをなした。
おゝ、「見かけによって判断すること」をやめよ。そして「正しい判断を下すこと!」を学べ。

質問:しかし、私は彼のことばにも祈りにも力を感じない。・・これは彼が完全でないことの証明
ではないか?
回答:そうではない。恐らくそれはあなた自身の誤りである。もし以下のどれかの邪魔ものが道
に横たわっているならば、あなたはそれ(彼のことばと祈り)の中に力を感じることを好んでいな
いのである。
 (1)あなた自身の魂の死。
魂の死んでいるパリサイ人は「今までにこのように語った人はいなかったように語られた」主の
ことばにも力を感じなかった。
 (2)意識上にある何か悔い改めていない罪の責め。
 (3)何かの種類の彼に対する偏見。
 (4)彼が告白しているところに到達可能であるとあなたが信じていないこと。 
 (5)彼がそれに到達したと考える備えがないこと。
 (6)彼を過大評価したり偶像化したりすること。
 (7)自分自身や自分の判断への過大評価。
もしもこれらのどれかが当てはまるなら、どうしてあなたは彼の語ることに力を感じないというこ
とができようか?

しかし他の人もそれを感じていないのではないか?
もし彼らが力を感じているなら、あなたの論は地におちている。
そして彼らが力を感じていないとしても、誰が彼らの道にもまたこれらの邪魔ものがないと言え
ようか?
あなたがたがこのことに関するいかなる議論を打ち立てることができるよりも前に、このことを
確かめなければならない。そしてその後であっても、あなたの主張は、恵みと賜物が常に伴わ
ないものでないことが証しされる必要がある。

「しかし、彼は完全なキリスト者に関する私の考えとは違っている。」
そして恐らくこれまでだれもしなかったし、これからもできないであろう。
あなたの考えが、聖書の記述を超えているか、脇にそれているためである。
あなたの考えは、聖書がその中に包含している以上のことを含んでいるか、あるいはなにか聖
書に含まれていないことを含んでいるのであろう。
聖書の完全は、清い愛が心に満ちることであって、すべてのことばと行いがその愛に支配され
ていることである。
もしあなたの考えがこれ以上の何かあるいは他の何かを含んでいるなら、それは聖書の完全
ではないし、従って疑いも無くあなたの考えによっては聖書的な完全なキリスト者は生まれな
い。
私は多くの人々がこの躓きの石に躓くのを恐れるのである。
彼らは聖書に従わず、これが完全だと彼らが考える彼ら自身が思い浮かべたイメージにした
がって、彼らが気に入る多くの要素を含めるのである。だからその架空の理想には誰も応える
ことができる人はいないとして、速やかにそれを否定するのである。
常に一つの目で見ることによって、単純に聖書の教えを保つための一層の注意をすべきであ
る。純粋な愛のみが心と人生を支配すること、・・・ これが聖書の完全のすべてである。

質問:ある人が自分はこれに到達したと判断できるのはいつか?
回答:いつか。それは生まれつきの罪の性質を完全に自覚した後、彼がかつて義認の前に経
験したもの以上の深い明白な認罪とそれに続く漸進的なそれを抑える経験がなされているこ
と、そして彼が罪の性質に全く死に、愛と神の像に全く更新された経験をし、その結果、常に喜
び、絶えず祈り、全てのことを感謝するに至った時である。

「すべてが愛であり罪の性質がないと感じる」というだけでは、十分な証明だとは言えない。彼
らの魂が完全に更新される以前にも、しばしばそう感じることがあるからである。それ故、聖霊
が義認の時と同様に明白に、彼が完全に潔められたと証しされるその証をして下さるまで、誰
もみ業がなされたと信じないのである。

質問:実際は潔められていないのに、潔められたと想像する人々がいるのはなぜか?
回答:その理由こうである。しばしば、彼らは前述の全ての徴によって判断するのではなく、ほ
んの一部の徴だけとか不明瞭な徴によって判断するからである。しかし、私は全部の徴に到
達したにもかかわらず、この事で欺かれた人の実例を知らない。
私は、そのような人は世界中に誰もいないと信ずる。
もしある人が義認の後に深く十分に生まれつきの罪の性質を自覚し、彼が罪の性質を次第に
克服した後、神の姿に完全に更新された経験をし、その変化が義とされた時になされた業以
上に広大で、明確かつ直裁な更新の証が与えられたなら、神は偽ることができないお方である
から、彼がそれに欺かれているということは不可能であると私は判断する。そして、私が誠実
であると分かっている人が、私に対してこれらのことを証言するのであるなら、他に十分な理由
なしには、彼の証言を拒絶することはあり得ない。

質問:この罪の性質に対する死と愛に更新されることは、次第に起きることか、それとも瞬時
の出来事か?
回答:ある人はしばらくの間死につつある状態にあるであろう。しかし死を正しく語ると、彼の魂
が肉体から離れる瞬間まで、まだ彼は死んではいない。そして死の瞬間に彼は永遠のいのち
を生きるものになるのである。同様に、彼はしばらくの間罪の性質に死につつあるであろう。し
かし罪の性質が彼の魂から離れるまで、罪の性質はまだ死んではいない。そしてその瞬間か
ら彼は全き愛のいのちに生きるのである。
肉体が死んだときに受ける変化は、私たちがそれまでに知っているものとは種類が違い、つま
り、思いつくことも不可能なほど非常に大きい。同様に魂が罪の性質に死ぬときに受ける変化
も、それまでの変化とは種類が違い、彼がそれを経験するまでは理解できないほど非常に大
きいのである。
その上彼は、今までどおり恩寵に、キリストの知識に、愛と神の像に成長し続ける。そしてそれ
は死ぬまでだけでなく永遠に続くのである。

質問:私たちはどのような態度でこの変化を待つべきだろうか?
回答:不注意な無関心やあるいは怠けて不活発ではなく、熱心で、事を問わない服従、全ての
戒めを守ることに執着すること、注意深くかつ忍耐深く克己すること、そして最も熱心な祈りを
捧げ、同様に私たちの十字架をとり、すべての神の命令を固く守ることによって。
そして、もしも誰かが他の方法でそれに到達することを夢見たとしても、(そのとおり、あるいは
それに到達したときそれを保つことでも、彼はそれをおおまかな尺度で受けたと思っただけな
のだが)彼は自らの魂を欺いているのである。
私たちは単純な信仰によってそれを受けるということは真実である。しかし、私たちが神が定
められた方法に従い、それをなしうる限り勤勉に捜し求めることなしには、神はその信仰を与
えることをなさらないし、そうすることを欲しておられない。
この考えは、この祝福を受けている人がなぜそのようにわずかしかいないのか、と疑問に思っ
ている人々に答えるものである。
考えてごらんなさい。一体どれくらいの人々がこの方法に従ってそれを探求しているだろうか、
と。そうすればあなたがたは十分な答えを得るであろう。

殊に祈りが不足している。
誰が絶えず祈っているだろうか?
この素晴らしいもののために神と格闘しているだろうか?
だから、「あなたがたは得られない。なぜならあなたがたは求めないか、誤った方法で求める
からである。」例えば、あなたがたは自らに死ぬ前に新たにされることを求めている。己に死ぬ
前に!

それはあなたがたを満足させるだろうか?
そうではない。しかしそれが今、今日、今日と呼べる間にそれがなされることを求めよ。「神に
対し時を制限する」などというな。
確かに、今日は明日と同様に神の時である。

急げ。人々よ。急げ!
あなたたがたの魂を強い望みで引き裂け
完全に無上の喜びが証されるまで
あなたがたの熱望する心がすべて火の中にあり
愛に溶かされるまで!

質問:しかし私たちは愛に全うされるまで平安と喜びの中に居つづけることができないのだろう
か?
回答:確かにできる。なぜなら神の国はそれ自身分割できないからである。信者に「常に主に
あって喜ぶこと」についての勇気を失わせてはならない。
しかし私たちの内にまだ残っている罪深い性質のために、はっきりとした痛みを感じるもので
ある。この針を刺すような感覚は、それから救われたいという熱心な求めを持たせるもので、
私たちにとってよいことである。
つまりこれが、ただ毎瞬時より熱烈に私たちが強い助け主のところに飛んでゆくこと、一層熱
心に「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走
らせる」ことに私たちを駆り立てるのである。
そして、その意味での私たちの罪の性質が増し加わるとき、その意味での神の愛も更に増し
加わるのである!

質問:これに到達したと考えている人をどう取り扱うべきか?
回答:彼らを率直に観察しなさい。そして彼らに熱心に祈るように勧めなさい。神は、彼らの心
の内にあるものすべてを、彼らに見せてくださるでしょうから。
最も熱心に勧めるべきことはどの恵みでもそれに富むものであること、そしてすべての悪を避
けることに最大の注意を払うべきこと、それがこれらの最も高い恵みにある人々に対して新約
聖書を通して与えられる勧めである。そしてこれらの勧めは、いかなるいやみも、おどしも、意
地悪さもなく、最大限の優しさをもってなされるべきである。私たちは怒り、不親切、あるいは軽
蔑の顕れを注意深く避けるべきである。これらの試みは、サタンと「私たちに侮辱と意地悪で
彼らを試みさせよ。それによって私たちは彼の弱さを知り、彼の忍耐の程度を証明できるであ
ろう。」と叫びだすサタンの子らに任せなさい。
もしも彼らがこの恵を与えられたと信じているなら、彼らがそれによって滅びる危険はない。た
とえ彼らの魂が神に帰るまで、彼らがそういう過ちにとどまっていたとしてもそうである。

質問:しかし、彼ら(全く潔められたと信じている人々)を無情に取り扱うことが、それをどう傷つ
け得るのか?
回答:彼らが誤っているか、そうでないかによる。
もしも誤っている場合、それは彼らの魂を滅ぼすことになる。これはありえないことではない、
むしろ、起こりそうなことである。彼らをひどく怒らせたり勇気を失わせたりするかも知れず、彼
らを失望させ、もはや立ち上がれなくするかもしれない。もし彼らが誤っていなければ、神が悲
しませなさらない人々を悲しませることになり、自らの魂をひどく損ねるものである。
従って、疑いも無く彼は彼等に触れるし、彼に触れるということは神のひとみに触れることであ
る。もしも彼らが真に聖霊に満たされているなら、彼等を不親切あるいは軽蔑して取り扱うこと
は、少なからず恵みの御霊を侮ることをしているのである。
この結果、同じように、私たちは自分たちの内にある邪悪な憶測と、多くの悪い気質を燃え立
たせ、それが増し加わるのである。
実例として一つだけ挙げよう。即ち、私たち自身を、これらの神の深い事柄を判断する横柄な
宗教裁判官とすることは、なんという自己過信のわざであることか。
私たちはその職務に値するものだろうか?
全ての事例について、私たちは弱点というもののおよぶ範囲を示し、それが罪であるか否かを
解き明かし、断言することができるであろうか?
すべての状況の中で、全き愛に相応しいこととそうでないものを見分けることができようか?
私たちは、過失が人の態度や声色などにどのように影響を与えるか、的確に決めることができ
るだろうか?
もし出来たとしたら、疑いも無く私たちは「知恵が私たちと一緒に死ぬ人々」である。

質問:しかしもし彼らが、私たちが彼らを信じないことに腹を立てるなら、(彼らが完全でないこ
との)彼らに対する十分な証明ではないのか?
回答:その立腹の内容による。もしも彼らが怒ったのであれば、それは彼らが完全ではない証
明である。もしも悲しんだのであればそうではない。
私たちが本当に神の業であるものを信じないために、それから受け取ることができたはずの
利益を自ら拒絶しているとしたなら、彼らは悲しむべきである。
そして、外見は両方とも大変よく似ているために、私たちはこの悲しみを怒りであると誤りやす
い。
質問:しかし、実際には到達していないのに到達していると空想している人々を見つけることは
よいことではないのか?
回答:優しく、愛をもって試みるのであるならばよいことである。
しかしそれを見つけて得意になろうなどということはよいことではない。
もし私たちがそのような事例を見出して、大きな獲物を捕らえたかのごとく喜んだりしたら、そ
れは極端な過ちである。私たちはむしろ深い同情をもって悲しみ、私たちの目から涙を流すべ
きではないのか。ここに究極まで救われる神の力の生き証人のような人がいると思われたの
に、悲しいかな、それは私たちの望と違っていた。彼をはかりにかけたところ、目方が足りない
ことが分かったとする。そうしたらこれは喜ぶべき事柄であろうか。もし私たちが純粋な愛以外
の何物をも見出すことができなかったら、それこそ千倍以上も喜ぶべきではないのではない
か?

「しかし彼は思い違いをしている。」
だから何なのか?
彼が彼の心の中には愛以外何もないと感じている限り、害のない誤りである。
それは、聖潔と幸福の両方に関する高い程度の偉大な恩寵について、普通に論じられる誤り
である。
これは単一の心を持っているすべての人々にとって、誤りがあることではなく、しばしの間でも
高い恩寵にあることを喜ぶべきことがらである。
私は、この魂がキリストにあって常に喜び、絶えず祈り、凡てのことを感謝していることを喜ぶ。
私は、彼が潔くない気質はなく、絶えず清い神の愛を感じていることを喜ぶ。
そして、もし罪の性質がその働きを停止したまま、完全に破壊されるに至ったなら、私は喜ぶ
のである。

質問:それでは誰かがそのような思い違いをしていても危険はないのか?
回答:彼が罪の性質を感じていない時点では危険はない。
以前は危険があった。そして新たな試みが彼にやって来るとき再び危険がある。しかし彼が、
彼のすべての思いとことばと行為は愛によって活かされているもの以外にはないと感じている
限り、彼にとって危険ではなく、幸福であるのみか、「全能者の蔭に宿り」安全でもある。だから
お願いする。可能な限り彼をその愛のうちに生きさせてやってもらいたい。
その間に、あなたがそれが起きる危険性を彼に警告するのは良いことであろう。もし彼の愛が
冷めて罪が再び生き返ると、望みを投げ捨てる危険性さえある。彼に警告しておくとよい理由
は、彼はまだ到達しておらず、そうなると彼は自分には決して到達できないと考えてしまうかも
知れないからである。

質問:しかし、もしもそれに未だだれも到達していないとしたらどうか?
もしもそう思っているすべての人が欺かれているとしたらどうか?
回答:それ(全ての人が騙されていること)を私に納得させてごらんなさい。そうしたら私は今後
それを説教しない。
しかし、私を正しく理解してもらいたい。私はいかなる教義もこの人あるいは他のだれかの上
に建てているのではない。この人あるいは誰か他の人は欺かれているかも知れない。しかし私
は動じない。
しかし、もし未だ完全に達した人がひとりもいないのであるなら、神は完全を説教するために私
をお遣わしにならなかったであろう。
似た事例を挙げよう。多年にわたって私は、「人の全ての思いを超える神の平安」について説
教してきた。これまでの年月、この平安に到達した人はおらず、今日それに対する生ける証人
がだれもいないために、私の説教が地に落ちたことを私に納得させなさい。そうしたら私は今
後それを説教しない。

「しかし幾人もの人々がその平安にあって召された。」
おそらくそうであろう。しかし、私は生きた証人が欲しいのである。私は、この人あるいはあの
人を確実に誤りない証拠であるということはできない。しかしもしそのような人が一人もいない
ことが確かであるなら、私はもうこの教理を捨てなければならない。

「あなた方は私を誤解している。私はある人々が、彼らの死ぬ前に長い間それを楽しみ、そし
てこの愛のうちに死んだことを確信している。しかし、彼らが死ぬ数時間前まで、彼らの以前の
証言が真実であるか否か確かではなかった。」
あなたがたは間違いない確信をもっていない。だから根拠のある確信をあなたがたも死の前
に持つべきであって、そのような確信があなたがた自身の魂を励まし、安堵させ、そして他の
すべてのキリスト者の要望に応えるものである。
ここにひとりの生き証人がいるならば、その人物と愛と神への畏れのうちに一時間の話し合い
をすることによって、率直な人ならだれでもそのような確信が与えられるであろう。

質問:しかし、それに関し聖書の中にたくさんの証人を見いだせるのであるなら、それに到達し
てもしなくても、重要なことではないのではないのか?
回答:もしも、数多くの説教者により非常に多くの場所で長期間、このように明確に強く説教さ
れたことに到達した人が英国中で一人も見出せなかったなら、私たち全員がこれらの聖書の
意味するところを誤って受け取ったのだと明確に納得すべきである。だからもしそのような時が
やってきたとしたら、私は「罪の性質は死ぬまで残る」と教えなければならないことになる。



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