キリスト者の完全  

17.1744年メソジスト聖職者の会合における議論の要約



1744年6月25日月曜日に、私たちの初回の会合が始められ、6人の聖職者と私たちの全説
教者が出席していた。翌日の午前中、潔めあるいは完全の教義について私たちは真剣に検
討した。 この問題に関する質問が出されたが、質問事項に対して与えられた回答は、以下の
とおりである。
・・・
質問 :潔められるとはどういうことであるか?
回答:義と真の聖であることに関しての「神の像に更新されること」である。

質問:完全なキリスト者になるということにはどういうことが含まれているか?
回答: 私たちの全心、全心情、全霊をもって神を愛すること。(申命記6:5)

質問:それはすべての内心の罪が取り去られたことを意味するか?
回答:まぎれもなくそうである。さもなければ私たちはどうして「私たちのすべての穢れから救わ
れた」(エゼキエル書36:29)と言うことができようか?

私たちの第二回目の会合が1745年8月1日に始まった。 翌朝私たちは聖潔について以下の
ように討議した。
・・・
質問:いつ内なる潔めが始められるか?
回答:人が義とされた瞬間からである。
(彼が完全に潔められるまで、罪、しかりすべての罪の種が彼のうちにまだ残っている。)
その時点から信者は次第に罪に死に、恩寵に成長する。

質問:通常これは死の直前に与えられるものではないのか?
回答。:そうではない。もっと早くを期待すべきである。

質問:しかし私たちはそれをもっと早く期待してよいのだろうか?
回答:どうしてそうできないことがあろうか?

もちろん、私たちは以下のことを認めるけれども。
(1)これまで私たちが知っている普通の信者は、死の直前まで潔められてはいない。
(2)聖パウロが彼の書簡を宛てた人々の中のごく少数の人々が、その時点でそうであるか、あ
るいは、
(3)彼自身も彼の最初の方の書簡を書いているときには、まだすべてが証明されているわけで
はなかったし、私たちは今日でもそうであるかも知れない。

質問:どのような方法で私たちは聖潔を説教すべきか?
回答:前進を求めない人々には全く話さないほうがよい。どのような場合にも駆り立てるのでは
なく薦めとして、常に約束の道にたよっている人々に語るべきである。

私たちの第三回目の会合が1746年5月13日火曜日に始められた。
その中で私たちは前二回の会合の議事録を、その中に含まれている事柄に何か削除すべき
ものあるいはもっと適切な内容に変更しなければならない点があるか検討するために注意深く
読んだ。しかし私たちは、以前合意したことについていかなる観点からも変更しなければならな
い理由は見出すことができなかった。

私たちの第四回目の会合が1747年6月16日火曜日に始められた。完全の教義を信じてい
ない何人かの人々も出席していたので、私たちは根底からそれを吟味した。それに従って、以
下の質問がなされた。

質問:完全な聖潔に関して、意見の異なっている私たちの兄弟たちによって、何が受け入れら
れているか?
回答: 彼らは以下に同意する。
(1)誰でも死の時には完全に潔められているであろうということ。
(2)信者は日ごとに恩寵に成長し、完全に少しずつ近づいて行くこと。
(3)私たちは完全に向かって絶えず進むべきであって、すべての他の人々にも同様にするよう
に薦めるべきであること。

質問:私たちは彼らの何を許容すべきか?
回答:私たちは以下に同意する。
(1)信仰にあって死んだ大多数の人々は、そのとおり、私たちの知っている大部分の人々は、
彼らの死の直前まで愛に完全ではなかったこと。
(2)潔められたという用語は聖パウロによって義とされたすべての人々に関して適用されてい
ること。
(3)この用語単独では、彼は、たとえそれがあったとしても、めったに「すべての罪から救われ
た」という意味に用いなかったこと。
(4)その結果、全くとか、完全にとか、あるいはそれに類する用語を付け加えることなくその意
味で用いることは適切でないこと。
(5)霊感された著者たちの大部分が、これらの義とされた人々についてあるいはその人々に
向かってはいつも語っているが、全く潔められた人々についてあるいは向かって語ることはま
れであること。
[それらは存在するが、彼らだけが他の人々から抜きん出ていると思っている人々に、しかし
彼らはほとんど絶えず彼らに他の人々と一致するようにと語っている。]
(6) 従って、それ(潔められたということば)はほとんどいつも義とされた状態についていうので
あるが、もっとまれに[もっとまれに、という表現に私は妥協するが、しかしある特定の個所では
極めて頻繁に、強く、かつ明確に]少なくとも十分に区別された、完全な聖潔に関する用語とし
て語られている。

質問:それでは私たちが区分する点は何であるか?
回答:それは、私たちは死という境界の前にすべての罪から救われることを期待すべきか?
ということである。

質問:このこと--すなわち神は私たちをすべての罪から救うのであるということ--に関して聖書
に何かはっきりとした約束があるのか?
回答:「彼はイスラエルをそのすべての罪から贖われる」(詩篇130:8)

このことは、エゼキエルの予言には更に豊かに表現されている。「そのとき潔める水をあなた
方の上に撒き、わたしはあなたがたをあなたがたのすべての汚れと全ての偶像から潔くする。
またわたしはあなたがたをあなたがたのすべての穢れから救う。」(エゼキエル36:25、29) 
これよりもっと明確な約束はありえない。そしてこれについて使徒はその薦めに関してはっきり
言及している。「私たちはこのような約束を得ているのだから、私たち自身を肉体と霊のすべて
の汚れから潔め、神を畏れて全く聖くなろうではないか。」(コリントU 7;1)
あの古い約束にも同様に明確に表現されている。「あなたがたの神である主はあなたがたの
心とあなたがたの子孫の心に割礼をほどこし、あなたがたの神である主をあなたがたのすべ
ての心と魂を用いて愛させる。」(申命記30:6)

質問:しかし、新約聖書に起因する回答になる引用がなにかあるだろうか?
回答: ある。それは最も平易なことばで述べられている。
たとえばヨハネの手紙第一3章8節、「神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすた
めです。」悪魔のしわざということばには何の制限も限定もないから、すべての罪が悪魔のしわ
ざである。
これと並んで聖パウロの「キリストは教会を愛して彼自身を教会のためにお与えになった。そ
れは彼ご自身のために、しみやしわ、あるいはそういった類の何かの汚点がない、聖なる栄光
の教会を出現させるためである。」(エペソ5:25-27)
彼がローマ人への手紙8章3、4節にに引用している「肉に従って歩まず聖霊に従って歩む私
たちの内に律法の義が満足されるために、神は御子を遣わされた。」(ローマ8:3、4) にも同じ効
果がある。

質問:新約聖書はすべての罪から救われたものとなることを期待すべきであるための何か更
なる基礎を提供しているか?
回答:疑いも無くそうである。祈りと命令の両方に含まれて、最も強力な引例に相当している。

質問:あなたが言っているのはどの祈りであるか?
回答:全き潔めに関する祈りであって、もしそれが存在しなければ神を嘲ったことになる。

特にそれは、
(1)「私たちを悪から救い出してください。」の中にある。もし、これが成就した時には、私たち
は全ての悪から救われており、罪が残っている ことはあり得ない。
(2)「私は彼らのためにだけでなく、かれらのことばによってわたしを信じるすべての人々のた
めに祈ります。かれら全部がひとつとなることを。また父よ、あなたがわたしのうちにおり、わた
しがあなたのうちにおるのと同様に、彼らがわたしたちにおる一人となるように。わたしが彼ら
のうちにおり、あなたがたわたしのうちにいて、彼らがひとつに完全なものとされるように。」(ヨハ
ネ 17:20-23)
(3)「私は神、私たちの主イエス・キリストの父にひざをかがめて拝し、キリストがあなたにこうい
うものを下さるように祈ります。それはあなたがたが愛に根ざし愛を基礎として、すべての聖徒
たちと共に、その広さ、長さ、深さ、高さを理解できるように。そして知識の通り道であるキリス
トの愛を知り、神に満ちているすべてのものをもって満たされますように。」(エペソ3:14以下) 
(4)「事実平和の神はあなた方を完全に潔めます。そして私は神に祈ります。あなた方の霊、
魂、肉体が全くされ、私たちの主イエス・キリストが来られるときまで責められるところなく保た
れますように。」(テサロニケT5:23) 

質問:同じ効果のあるものとしてどの命令があるか?
回答:
(1)「あなたがたの天の父が完全であるようにあなたがたも完全でありなさい。」(マタイ5:48) 
 (2)「あなたがたはあなたがたの心のすべて、魂のすべて、心情のすべてをもってあなたがた
の神主を愛さなければならない。」(マタイ12:37) そして、もし神の愛が心のすべてを満たしたなら
ば、そこには罪は存在し得ない。

質問:しかし死という境界の前にそれがなされることはどのように表されているのか?
回答:
(1)命令の通常の性格からである。命令は死んだ人に与えられるものではなく、生きている人
に与えられる。それ故、「あなたがたの心のすべてを用いて神を愛さなければならない。」は、
あなたがたが生きているときにではなく死んだときにそれをしなさい、ということを意味しない。
(2) 聖書の本文の表現から:
 (@)「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、 私たちに、不敬虔とこの世の欲とを
捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いな
る神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさ
としたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法
から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:
11-14) 
 (A)「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、
われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、
主の御前に仕えることを許される。(ルカ1:69以下)


質問:聖書中の人物でこれに到達した事例があるか?
回答:ある。聖ヨハネおよび彼が述べているこれらの人物たちすべてがそうである。
「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの
日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じよ
うな者であるからです。」(ヨハネT4:17)

質問:そのような事例の現存の人物を示すことができるか?
このように完全な人はどこにいるか?
回答:この探りを入れる質問をなす人物たちに対してはこう答えよう。
例え私がここにその人物の一人を知っていたとしても、あなた方にそれ教えることはしない。な
ぜならあなた方は愛によってその質問をしていないからである。あなたがたはヘロデのようで
あって、殺すために幼い子供を捜し求めているからである。
しかしもっと直裁的に答えよう。
たとえ何例かの疑いもない事例があったとしても、なぜそれが少ないかということには多くの理
由がある。何ごとについても打たれることになり、なんとその人自身に不都合をもたらすこと
か!
そして反対する人々に対していかに不適切であることか!
キリストと彼の使徒たちはこう言った。「モーセと預言者にきかないならば、誰かが死人の中か
らよみがえって彼らに述べ伝えても説得されない。」

質問:私たちは全ての罪から救われたという人に対して嫌悪を抱きやすいのではないか?
回答:それはいろんな理由から当然ありうると思う。
一部は人々の善意から、たとえ彼らが偽っていることではないにしても、傷つけるかも知れな
い。また他の一部は自分自身よりも高いところに到達したと語る人々に対する心に潜在する妬
みの一種からくる。また他の一部は神の業を信じることについての私たちの傾向的なのろさと
か心の準備が出来ていないことからくる。

質問:私たちが愛に全うされるまで信仰の喜びが続かないのはなぜか?
回答:本当にそうだろうか?
聖なる悲しみもこの喜びを冷ますことはなく、私たちが十字架の下にいる間、そしてキリストの
悩みを深く共にしている間はずっと、私たちは言いようのない喜びをもって喜ぶのである。
これらの抜粋から、単に私と私の弟の判断だけでなく、一七四四、四五、四六、四七年に私た
ちと関係をもっていた全ての説教者たちの判断であることが否定しようもなく明らかである。そ
ればかりでなく私は次のことを記憶している。それは、これらの会合に出席した誰もが、一つの
反対の声もあげなかったこと、そして私たちが出合った人々で何らかの疑いをもっていた何人
かは、私たちが会合を開く前に全員去ったことである。




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