キリスト者の完全  

10.1738年「メソジスト信徒の品性」出版

特にこの主題に対して私が今までに書いた最初の小冊子はこの年の終わりに出版された。彼
らがそれを読まないうちに偏見を持たないように、私はそれに『メソジスト信徒の品性』という平
凡な表題をつけた。『私がすでに到達したというのではないが』と前置きして、私はその中に完
全なキリスト者について述べた。その一部を変更することなくここに引用する。 

・・『メソジスト信徒とは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる彼の神を
愛する者である。神は、彼の心の喜びであり、また「あなたを除いて私は誰を天に持つでしょう
か?地にはあなたの他に私が望むものはありません。」と絶えず叫ぶことが彼の魂の願望で
ある。 私の神、私のすべてよ!「あなたは私の心の力、私の永遠の嗣業です。」
それ故彼は神にあって幸せである。そのとおり、常に幸福である。彼の内には永遠のいのちの
泉が湧き溢れ、彼の魂からは平安と喜びがこぼれ落ちる。今や全き愛は彼のうちに生き、そ
れが彼の恐れを除き、彼はいつも喜んでいる。そのとおり、彼の喜びは満ち、彼のすべての骨
はこう叫び出す。「私たちの主イエス・キリストの父なる神に栄光あれ、主はその豊かな憐れみ
に従って、私に再び朽ち、しぼむことのない天に蓄えられた生きる望みを与えて下さった。」  
このように尽きることのないこの望みを持つ者は、(それが何であるとしても)キリスト・イエスに
あって彼に関する神の御心であると判る凡てのことに感謝する。それ故彼は快活に凡てのこと
をこういって受け入れる。「主の御心は善い」と。そして与えられるにも取られるにも等しく神の
御名を褒め讃える。安楽にも痛みにも、病気にも健康にも、生きるにも死ぬにも、「真実である
造り主のみ手の中に」彼の身も魂も完全に委ねて、それを善いことのためにお与えになる主
に、彼は心から感謝を捧げる。 
それ故彼自身は「何事も思い煩う」ことはない。「彼の心配事を心配して下さる主にすべて委ね
る」からである。そして「すべての物事について」彼にお任せする。「感謝をもって、彼の必要を
知っておられる」主に「求める」のである。
実に彼は「絶えず祈る」。常に彼の魂の語るところはこれである。「声はなくともあなたに向かっ
て私の口は語ります。私の沈黙もまたあなたに向かって語っています。」と。彼の心はいつも、
そしてすべての場所で神に向かって上げられる。その中で彼はいかなる人物いかなる物事に
よっても決して害されないし、妨げられることはさらに少ない。退くにも付き合うにも、休暇にも
仕事あるいは会話でも、彼の心は常に主とともにある。休むにも、起きるにも、「神は彼のすべ
ての考えの中に存在する。」彼の魂の目は主に固定され、いずこにおいても「見えない主を見
ながら」、愛をもって彼は絶えず神と共に歩む。 
そして神を愛するが故に、彼は「隣人を自分自身のように愛し」、彼自身の魂のようにすべての
人を愛する。彼は彼の敵を、その通り、神の敵をも愛する。例え、彼らが彼の愛を鼻であしら
い「彼を全く退け、迫害する」が故に、「その彼を嫌う人々のために善をなす」力がない時にも、
彼は「彼らのために祈る」ことをやめない。 なぜなら彼は「心の清い者」だからである。愛が彼
の心を、妬み、悪意、憤り、などのすべての好ましくない傾向性から清めたからである。 それ
は「ただ議論をもたらすだけ」の傲慢から彼を潔め、今や彼は「憐れみ、親切、謙遜な心、柔
和、忍耐」を有する者となった。そして事実、論争の素地は彼の側から、なしうる限りすべて取
り除かれている。「世も世にある何物をも愛せず」「彼の望みは神にあり、神に彼の名を憶えて
いただくこと」のみを求めている彼の望みを、誰も彼から取り去ることはできないからである。
彼が自分のただ一つの願望として承知できることは、「彼自身の心をなすのではなく、彼を遣
わし給うた主の御心をなす」ことを、彼のただ一つの人生の目的とすることである。いつでも何
処でも彼のただ一つの意図は、彼自身をではなく、彼の魂を愛してくださる主をお喜ばせする
ことである。
彼は正しい目をもっている。彼の「目が正しいので彼の全身は明かりに満ち、ろうそくの光によ
って家の中が照らされているときのように全身が明るい。」神おひとりが支配される。魂のうち
にあるすべてのものは「主への聖なるもの」である。
 彼の心の内に、主のみ心に従うこと以外の思いは存在しない。毎瞬起きてくる彼の全ての思
いは、「キリストの律法への服従」に沿っている。そして木はその実によって知られる。神を愛
するが故に、彼は「主の戒めを守る」。それも単にいくつかではなく、大部分でもなく、最も小さ
いものから最も大きいものに至るすべての戒めを守る。彼は「律法の全体を守るけれども一点
には背く」というようなことでは満足せず、全ての点で「神と人への 欠けることのない良心」を保
つのである。彼は神が禁じられたことは何であっても避け、神が喜びなさることは何であっても
実行する。彼は神の戒めの道を走る。それ故神は彼の心を自由にされている。「神のみ心が
天においてなされるように地においてもなす」ことが彼の日々の喜びの冠であり、そうすること
が彼の栄光であり喜びである。
当然彼は力を尽くして全ての神の戒めを守る。なぜなら彼の服従は、服従の流れでる源泉で
あり、愛に比例するからである。それゆえ彼が、心を尽くして神を愛するにつれて、力を尽くし
神に仕えるのである。彼は絶えず彼の魂と「彼の身を、神が受け入れてくださる聖い生きた献
げもの」として捧げ、彼自身のために何物も残さず、彼の所有物のすべてと彼の全存在を主の
栄光のために捧げる。彼は彼の持っている全才能、すなわち彼の魂のすべての力と機能、彼
の身体の全ての部分、を彼の主のご意志に沿って絶えず用いる。その結果、「彼が行うことす
べては、神の栄光のため」である。彼はどの種類の仕事に携わっても、単に彼がこのことを目
的としているだけでなく、それは彼が清い目を持っていることを意味するが、働く時にも、休む
時にも、祈りの時と同様にこの偉大な目的に仕え、事実それを成し遂げるのである。彼は「家
の中で座るにも、道を歩むにも」、横たわるにも、起き上がるにも、彼は彼のすべてのことばと
行いに、彼の人生におけるただ一つの働きを推進する。彼は衣服を身に着けるにも、労働に
も、飲食にも、あまりにも疲れる仕事から身を引くにも、すべて人々の間で平和と善意をもって
神の栄光を高揚させることを目的としている。
彼のただ一つの不変の規則は、「語ることであっても行うことであっても、あなたがなすすべて
のことは、主イエスの名によって行い、彼を通して父なる神に感謝すること」である。同様に世
の風習は彼が「彼の前に置かれた競争を走ること」を妨げない。それゆえ彼は「地に宝を蓄え
る」ことが出来ず、もはや彼の胸に火を抱くようなことはない。彼は隣に悪を語ることが出来
ず、神と人にうそをつくことができない。彼は誰に対しても不親切なことばをいうことがない。な
ぜなら愛が彼の口の扉を守っているからである。彼は「無益なことば、不潔な会話を話す」こと
ができず、「彼の唇から出るもの」はすべて「教えに役立つ善いこと」であり「聞くものへの主の
恵み」のみである。 そして、「すべての潔いこと、すべての愛すべきこと、すべての義しいこと」
まさしく「善き聴こえ」を、彼は「すべての事柄のうちにおられる神と救い主の教えに従って」考
え、語り、行うのである。』
  
これが、私がキリスト者の完全に関する私の考えを、広く世に出した最初の著作である。そして
これを理解することは容易くないのだろうか? 
(1)私が1725年から、より決定的には1730年から、私は「一書の人」であることを始め、聖
書以外には何物をも考慮に入れないことにしたのはまさにその時点からであることを。 
これを理解することは容易くないのだろうか? 
(2)これは私が何一つ加えることなく今日も信じ教え、38年経った今に至るまで擁護している
ものとまさしく同じ、内と外のホーリネスに関する教理であることを。 
以下に引用する抜粋によっても、私がその時点から今に至るまで神の恵みによって教えつづ
けているのは同じものであることが、公正な人には誰にとっても明らかである。  


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