聖化に関する一考察  

15.聖別と聖化の関係


1. 祭壇の供え物は聖い 
2.キリストの奴隷と自分の奴隷
3. 山本光明先生の証 

1. 祭壇の供え物は聖い  
  イエスの血によって心を洗っていただくことは、ただ「イエスの血がきよめる」というみことば
を信じるだけで、他になにもありません。ですからあまりにも簡単すぎて、何をどうしたらよいか
見当がつかない人は、これも前から何度も繰り返し説明していることですが、神に自分を「聖別
していただく」ことによって聖化の恵みにあずかることを目指すとよいでしょう。
 きよめに関する著作によくでてくることに、イエスがパリサイ人に対して言った、「目の見えぬ
者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。」(マタイ 23:
19)ということばがあります。パリサイ人は脇に置いて、「祭壇は供え物を聖いものにする」とい
うことに着目します。祭壇の上のものは神に捧げられたものです。神にそれを受け取って頂くと
神のものとなり、神のものは「聖い」ものです。
 祭壇の供え物は人が捧げたものです。
人が捧げないものを、神がお取りになることはまずありません。もしあったとしても希なことで
す。神は人の同意なしにはことを行われないのです。
「捧げる」は、「献身、みことばへの服従、摂理の導きを受け入れること」など、いろいろな事態
や表現で表されます。「キリストのしもべ」となることもそのひとつです。

2.キリストの奴隷と自分の奴隷

日本人の感覚としては「しもべ」は「使用人」ですが、聖書に「しもべ、僕」と訳されていることば
は「奴隷」ということばで、翻訳する人々がそれを使い分けていますが、元のことばは同じで
す。「使用人」は別のことばです。
 献身とは「キリストのしもべ」となることを承知することです。奴隷なんて嫌だと思うかも知れま
せんが、
<神の奴隷でないひとは、サタンの奴隷です。>
私たちはもともとサタンの奴隷だったのです。そのことをよく悟らなければなりません。第一、私
たちはキリストの血によって「贖われた」ものです。贖われるとは「買い取られる」ことであって、
奴隷だったものが、買い取られて自由の身にしていただくのです。誰の奴隷か?サタンの奴隷
です。誰に買い取られたのか?キリストに買い取られたのです。それでキリストのものとなりま
した。それを確認しているだけです。

ウェスレーは「キリスト者の完全」の最初の部分に、彼が悟ったこととして以下のように記してい
ます。
「2. 1725年、私が23歳であった年に、私はテイラー主教の「神聖な生と死に関する宗規と
実践」に出会った。この本の数個所、特に意図の純潔に関する部分を読んでいるうちに、私は
非常な感銘を受けた。直ちに私は、私のすべての考え、言葉、行動、そして私の人生のすべて
を神に捧げる決意をした。私が完全に理解したことは、中間は無いということであった。つまり
私の生活のすべて(いくらかのみではなく)を神に捧げるか、あるいは私自身に捧げるか、それ
は結果として悪魔に捧げることである、しかないということであった。真面目な人であるなら誰で
あれ、これを疑いあるいは神に仕えることと悪魔に仕えることの中間に生きることを見出せる
であろうか?」
大切なことは、「私自身に私を捧げるということは、悪魔に捧げることです。」キリストのしもべと
なることを拒否し、自分のうちにある「サタンのかたち」のしもべになるからです。

3. 山本光明先生の証

 長く私を導いて下さった山本光明先生はご自分のきよめについて次のように証しておられま
した。それは「神のものとなることを受け入れるよい例話」ですから、引用させていただきます。
細かな点では違っていることがあるかも知れませんが大筋は以下の内容でした。
・・・
聖会の講師に招かれた外国人の方が、神の飛行機に乗るという例話を話された。
「人は飛行機に乗ると、行き先も身の安全も一切を飛行機に任せることになります。それと同じ
ように私たちの人生の一切を神の飛行機に乗せていただくのです。神の飛行機に人生のすべ
てを委ねるとき、潔めの恵みに与ることができるのです。」
それを聞いて先生は、「私も神の飛行機に乗せていただきます。」と決断し、きよめの恵みに与
りました。
・・・
 みな献げまつり 我がものはなし
 ときわに御旨に 従いまつらん
 われ献ぐ みな献ぐ
 御前に主よ我 みな献ぐ
(インマヌエル讃美歌 317)
この讃美歌が先生の愛唱歌で、その時の決意が変わらなかったことがここに示されています。

献げます、従います・・と決意したはずが、すこし時間が経つと元通りになっていて、献げたは
ずのものに固執をしている自分を見いだすということがあります。これを書いている私自身が
そうでした。何度それを繰り返したことでしょう。けれども、聖霊の助けを得て、真に神のものと
なることができました。

 「私は神の飛行機に乗せていただきます。」とこころから決断するなら、神はそれを受け入れ
てくださり、きよめのめぐみに与らせてくださるでしょう。
 神の前に静まって、自分のこころの内を考察し、神に従うことができないものをみつけること
がなかったなら、「神よ、私のすべてはあなたの祭壇の上にあります。あなたへの供え物として
私を受け入れ、きよくしてください。」と、神に話すとよいでしょう。
 もし神に従うことができないものをみつけたら、不従順でしたと「悔い改めて」おなじことをする
のです。

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